寝たきり老人には「生きる価値がない」のか?

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老人介護 医療

寝たきり老人には「生きる価値がない」のか?

参政党の公約「延命治療の全額自己負担化」に現場医師が伝えたいこと

参政党が躍進している。東京科学大学医学部臨床教授の木村知医師は「日本人ファーストの、“日本人”とは誰なのか。公約をみると、優遇される日本人と、優遇されないばかりか、生存さえ諦めねばならない日本人とに分断される可能性が見えてくる」という――。

「日本人ファースト」の“日本人”とは誰のことか

さて、いよいよ参院選。自公政権の過半数維持が微妙とされるなか、「日本人ファースト」を掲げる政党が大躍進の様相を呈しているという。

「もう外国人への優遇は許すな、私たち『日本人』がまず優遇されるべきだ」

このような主張に喝采する人は少なくないかもしれない。だがその「日本人」に、はたしてあなたは該当しているだろうか?

この主張を掲げる参政党の公約を読んでみると、この「ファーストとされる日本人」にはこの国に住まうすべての日本人が当てはまるわけではないことが見えてくる。この「日本人」のなかにも序列があって、優遇される日本人と、優遇されないばかりか、生存さえ諦めねばならない日本人とに分断される可能性が見えてくるのだ。

日本記者クラブ主催の党首討論会で発言する参政党の神谷宗幣代表=2025年7月2日午後、東京都千代田区
写真=時事通信フォト
日本記者クラブ主催の党首討論会で発言する参政党の神谷宗幣代表=2025年7月2日午後、東京都千代田区

その公約はホームページで読むことができる。

正確を期すため長いが該当部分の全文を供覧しよう。

「多くの国民が望んでいない終末期における過度な延命治療を見直す」

70歳以上の高齢者にかかる医療費は年間22兆円と全体の半分程度を占め、特に85歳以上になると一人あたりでは100万円を超える。終末期における過度な延命治療に高額医療費をかけることは、国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっており、欧米ではほとんど実施されない胃瘻・点滴・経管栄養等の延命措置は原則行わない

・本人の意思を尊重し、医師の法的リスクを回避するための尊厳死法制を整備。
・事前指示書やPOLST(生命維持治療に関する医師の指示書)で、医師が即座に心の負担なく適切な判断ができるプロセスを徹底。
・終末期の点滴や人工呼吸器管理等延命治療が保険点数化されている診療報酬制度の見直し。
・終末期の延命措置医療費の全額自己負担化。

瓜二つの政策が過去にも…

これを見たとき、「またこんな使い古しの政策を出してきたのか」との感想しか出てこなかった。

「延命治療の自己負担化」や「安楽死法制化」を医療費削減の文脈で訴える“学者”や政治家は、これまで何人も現れては有識者や医療経済学者らの批判を喰らって論破され、そのつど発言の撤回と修正を余儀なくされてきたからである。

以前、プレジデントオンラインにも寄稿したが、昨年の10月12日、衆院選公示を目前に控えておこなわれた記者クラブ主催の党首討論会において国民民主党の玉木雄一郎代表が発した、

「社会保障の保険料を下げるためにはですね、我々は、高齢者医療、特に終末期医療のですね、見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含めて、医療給付を抑えて、若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、次の好循環と賃金上昇を促すと思っています」

との発言が「現代の姥捨山だ」との多くの批判で火ダルマとなり、結果、発言の修正と「火消し」に追い込まれたことを記憶している方も少なくないだろう。

なんと、この火ダルマになった国民民主党の政策と笑ってしまうくらい瓜二つの公約なのだ。

どこからが「終末期」なのか

人権・倫理・道徳という「人の道」を大きく踏み外した政策であるとの指摘はこれまで何度もしてきたので、本稿ではいささか不本意ではあるが、彼らと同じ土俵に上がって、この政策をおこなおうにも「現場では絶対不可能である」という「実現可能性」にフォーカスして論じよう。

第一に、「終末期」とはなんぞやという点である。なんとなく理解できるようで、その定義をはっきり述べられる人はいるだろうか。

一般的には、“いかなる治療をおこなっても回復が困難で、数週間から数か月以内で死に至る不可逆的な状態であると複数の医療関係者によって慎重に判断されたもの”と解釈されようが、明確な「診断基準」はない。

熟練した医師でさえその判断には、日々葛藤し続けているのだ。シロウトの政治家の意図が介入できる余地はいっさい存在しない。

かりにこのような主張を掲げる政党が政権に加わり、この政策を運用しようとしたところで、じっさいの医療現場では「はい、あなたは終末期」「あなたはまだよ」と、チャッチャと機械的に線引きして運用できるものではない。

そもそも親や配偶者について医者から「はい、もう終末期なんで明日から全額自費でお支払いくださいね」と言われて納得できる人はいるだろうか。

「胃瘻+人工呼吸器=延命措置」という誤解

第二に、「延命措置」とはなんぞやという点だ。

終末期の診断が明確にできないわけだから、延命といったところで、どこまでが治療でどこからが延命かの明確な線引きも不可能だ。

延命治療というと「胃瘻や人工呼吸器を何年もつけている人への医療」というイメージで語られるが、これは医療現場をまったく見たことがないか、終末期医療を中途半端にしか理解していない人の認識だ。

こういうと「胃瘻や人工呼吸器をつけないと死んでしまうなら終末期の延命だろう」と言う人もあろうが、むしろこれらを付けさえすれば年単位で生存できる状態だ。これを終末期とは断じて言わない。社会活動をしている人もいる。

もしこの医療行為までも延命治療と呼ぶなら、ペースメーカーも、冠動脈ステントも、人工肛門も、いや高血圧の薬を飲むことさえも「延命治療」になってしまう。「胃瘻や人工呼吸器を何年も」を終末期延命治療の例として挙げてしまうと「現代医療の全否定」にシームレスにつながってしまうのだ。

「無駄な延命」「意味のある治療」線引きは

「じゃあ、社会活動できない認知症の寝たきりの高齢者はどうなんだ」と言う人もいるかもしれない。

おそらくその人は「社会の役に立っていないのだから生きていたってしょうがないじゃないか。私なら国の足を引っ張ってまで生きていくのはいやだ」と言いたいのだろう。

だがそれは、そのひと個人の感想に過ぎない。その人が自分自身だけに適用するのは勝手だが、赤の他人にまで押しつけるのは余計なお世話というほかない。

そもそも社会の役に立っているか否かを、どうやって「判定」するのか。

年齢か? 介助の要否か? 就業の有無か? はたまた納税額の多寡か?

そもそも「私は社会の役に立っている」と胸を張って言える人はどのくらいいるだろうか。

公約に話を戻そう。延命治療に「過度な」という形容詞をつけていることにお気づきだろうか。おそらく私のような意見や批判を封じるための細工だろうが、これこそ大失敗だ。

先述したように、ただでさえ「無駄な延命」と「意味ある治療」の線引きが困難なのに、「過度な」をつけてしまったことで、「過度な延命」と「普通の延命」という、いっそう線引きが困難な問題を自ら作り出してしまっているからである。

呼吸を補助または管理するために人工呼吸器を使用しているシニア男性
写真=iStock.com/PongMoji

「全額自己負担化」で笑うのは誰か

第三として、重要な事実誤認を指摘しておくと、拙著(「大往生の作法ー在宅医だからわかった人生最終コーナーの歩き方」(角川新書))にも詳細に書いたが、終末期における過度な延命治療の例として書かれている「欧米ではほとんど実施されない胃瘻・点滴・経管栄養等の延命措置」は、わが国でも、とうにおこなわれていない。

現場の医師らの慎重な診断のもと「終末期」とされた人に、その時点から胃瘻や経管栄養を開始することは、今や皆無といっていい。末梢点滴や皮下点滴をおこなうことはあるが、これも延命効果はほとんどなく、患者のためというより、経口摂取できない患者を見殺しにするようで可哀想という家族の気持ちを和らげる、一種のパフォーマンス的行為だ。その場合も数週間ともたないから、医療財政を圧迫することはありえない。そもそも医師が丁寧に説明してもなお、点滴を希望する家族は今や少数だ。

そして最も噴飯ものなのは第四点目の「(終末期の延命措置医療費の)全額自己負担化」だ。これぞ彼らの本丸なのだろうが、これぞ矛盾に満ちた提案なのだ。公約をもう一度見てほしい。

この公約で「多くの国民が望んでいない」「過度な延命治療」は「本人の意思を尊重」する観点からも見直すべきとのポリシーを有権者に訴えたいのであれば、全額自己負担ならオッケーではなく、保険だろうが自費だろうが「全面禁止」と主張しなければ筋が通らない。

それに全額自己負担なら公的医療費は多少削減されるとはいえ、これらの医療で占領されるベッドや人的資源の消費が減るわけではないという視点も完全に欠落している。

つまり裏を返せばこの政策は、お金のある富裕者には自由に医療資源を“浪費できる”選択肢を与えるが、お金の払えない貧乏者にはその選択権さえ与えない、つまり“生存は諦めろ”というメッセージなのだ。

「日本人ファースト」という言葉に酔いしれている場合ではない。この政策は「日本人の富裕層ファースト」そのものなのだ。

終末期医療をやめる費用対効果は…

そもそも「終末期の過度な延命治療」がどれだけ医療財政を圧迫しているのか説明できるだろうか。

管だらけの寝たきりの人の写真を見て、ただなんとなくイメージで莫大な費用が浪費されていると思い込んでいるだけではないか。

イメージでなく、エビデンスベースで説明しよう。

2015年の研究(鈴木亘「レセプトデータによる終末期医療費の削減可能性に関する統計的考察」、『学習院大学 経済論集』第52巻 第1号、2015年4月)をわかりやすく解説した記事がある。

ここでは死亡前1年間の1人当たり医療費の月別グラフが示されており、たしかに死亡前3カ月くらいから医療費が大幅に増え、最も増えるのは死の1カ月前と読み取れる。

だがデータを細かく分析すると、最後の1カ月に医療費を急増させているのは「胃瘻を作られてベッドで寝たきり」という長期入院患者でなく、自宅で生活できていた人が突然入院、手を尽くした結果亡くなってしまった人、いわば急性期患者だったのだ。

少し古いデータだが厚労省保険局は2002年度の「終末期における医療費(死亡前1カ月にかかった医療費)」は約9000億円と発表しており、これは同年度の「医科医療費」に占める割合で言うと3パーセント程度だ。

しかもこの9000億円には、先述の急性期医療費が含まれている。これらを「終末期の過度な延命治療」として削減せよとなると、救命救急医療・急性期の集中治療までも全否定してしまうことになるのだ。

高齢者医療全体を見てみても、1年間にかかった高齢者医療費のうち終末期医療、つまりその1年の間に亡くなった方々にかかった費用は1割程度。あと1年で亡くなると思われる高齢者に医療をまったくおこなわないというフィクション映画のような非人道的行為をもってしても、医療費に与えるインパクトはきわめて限定的なのだ。

こうして“1億総序列化社会”が誕生する

「70歳以上の医療費は年間22兆円」「85歳以上になると一人あたり100万円超」との数字を掲げ、延命治療を自己負担にすればあたかもこれらが解消できるやに有権者に思わせるこの公約が、いかにエビデンスに基づかないものだと容易に理解できるだろう。

いや、この公約からは「過度な延命」にとどまらず、高齢者にたいする医療そのものが無駄であり、これらをすべて削減したいやにも読み取れる。彼らのいう「日本人」に高齢者は含まれていないようだ。

若者から見れば、高齢者の医療など無駄にしか見えないかもしれない。だがこの政策で今は「日本人」として認められている人も、いずれ高齢者となって「日本人」から除外され、生存権さえ失う可能性があることは認識しておくべきだろう。

いや、今の若者も例外ではない。命の線引きを公然と政策に掲げ、ファーストとそうでない人、つまり人間に優劣をつけたがる政党が政権に加わると、出自や性別はおろか、思想や生活習慣、就労状況から納税額までもが「日本人」として適格か、優れているか、生存するに値するかといった政治的介入を受け、私たちにさらなる分断をもたらすだろう。

すなわちファーストとされるはずの「日本人」すべてに優劣がつけられる“1億総序列化社会”の誕生だ。「寝たきりの認知症高齢者は社会の役に立っていないお荷物」などと嗤っている若者にも、突然「あなたは納税額が少ないので日本の役に立っていませんね、公的サービスを使うのは控えてもらいます」といった通知が国から来るかもしれない。

「そんなの今の私には関係ないよ」と思っている人が、ゆくゆく後悔しなければいいのだが。それこそ私には関係ない、か。



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