江戸時代の人々の気質

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江戸城 日本の歴史

江戸時代の人々の気質

江戸時代の人々の民度は今の令和の世より高く、素晴らしいものだった

 日本を覆う経済不況がどんどん深刻化していくなか、唯一活況を呈しているのがインバウンドです。
 私は、日本を訪れた外国人にインタビューして、日本の感想を聞くユーチューブ動画が面白くてよく観ています。街にゴミが落ちていない、電車を並んで待つ、それに時間通りに到着する上に中はきれいで静か、トイレがハイテクで清潔、食事が美味しい……などのコメントが定番です。
 そして、そうした定番コメントを超えて、少なからずの外国人旅行者が、日本を「異世界」と表現していることにちょっと驚いています。
 たしかに外国と大きく違う日本独特の文化がありますが、それは「異世界」と表現するほど大袈裟なものなのかなぁ……といった感覚です。
 そもそもユーチューブ動画のインタビューを受けるということ自体、日本に対し好印象を持った旅行者ということだと思うのです。海外でアニメや漫画で育った日本びいきの世代が来日しているので、日本に対し特別な思い入れがあるでしょうから、彼らの言葉はある程度割り引いて聞く必要があると思っています。
 とはいえ、海外の渡航者が日本を「異世界」と表現したくなるものは何だろうと、知りたくなってきます。
 そんな折、当HPの掲示板に『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)が紹介されました。私は、(日本文化のルーツとしての)江戸時代の日本人の気質がわかるかもしれないと思い、さっそくネットで注文しました。
 届いた本をパラパラとめくってみたのですが、とても興味深いものでした。
 本は明治時代に日本を訪れた外国人による率直な日本人に対する観察や体験記録で、今の日本びいきの旅行者と違い、外交官、学者、軍人、技術指導員などの知識層の人々が書いたものです。単純な日本ファンではなく、冷静に分析する目を持った人々の記述ゆえに、貴重だと思うのです。
 そんな彼らが日本人に対し、そのような感想を持ったのでしょうか。
 時代は江戸幕府が倒れて、明治となった頃です。
 それゆえ当時の外国人から見た日本人は、江戸時代に生まれた人々で、江戸時代を生きた人々と言ってよいでしょう。
 今回は、そんな江戸時代の人々の気質について紹介させていただこうと思います。
 まず最初は、私がとても意外に感じた、当時の日本人の“幸福さ”、“陽気さ”です。


 ・・・<『逝きし世の面影』、p75~p78から抜粋開始>・・・

 1860(万延元)年、通商条約締結のため来日したプロシャのオイレンブルク使節団は、その遠征報告書の中でこう述べている。「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。また、1871(明治4)年に来朝したオーストリアの長老外交官ヒユーブナー(Alexander F.V.Hubner 182~92)はいう。「封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。
 人びとの表情にあらわれているこの幸福感は、明治十年代になっても記録にとどめられた。ヘンリー・S・パーマー(Henry S・Spencer Parmer 1838~93)は横浜、東京、大阪、神戸などの水道設計によって名を残した英人だが、1886(明治19)年の『タイムズ』紙で伊香保温泉の湯治客についてこう書く。「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現われていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird 1831~1904)は1878(明治11)年、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北地方を馬で縦断した英国女性であるが、青森県の黒石まで来たとき、農家の原始的な様子--手で泥を塗りつけたような壁や、まるで煉瓦窯のように家のここかしこから煙が洩れている有様におどろかされた。しかしそれでも彼女は、そういう住居の前で腰まで裸で坐っている人びとの表情が「みな落着いた満足」を示していたと書きとどめているのだ。
 オズボーンは江戸上陸当日「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとて」出会わなかったというが、これはほとんどの欧米人観察者の眼にとまった当時の人びとの特徴だった。ボーヴォワルはいう。「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」。「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」というのはリンダウ(Rudolf Lindau 1829~1910)だ。リンダウはスイス通商調査団の団長として1859(安政6)年初来日、64年にはスイスの駐日領事をつとめたプロシャ人である。オイレンプルク使節団報告書の著者ベルク(A. Berg 生没年不詳)の見るところも変らない。彼らは「話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」。
 1876(明治9)年来目し、工部大学校の教師をつとめた英国人ディクソン(Wiliam Gray Dixon 1854~1928)は、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べる。「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」。むろん日本人の生活に悲しみや惨めさが存在しないはずはない。「それでも、人びとの愛想のいい物腰ほど、外国人の心を打ち魅了するものはないという事実は残るのである」。
 1874(明治7)年から翌年にかけて、東京外国語学校でロシア語を教えたメーチニコフ(Lev Ilich Mechnikov 1838~88)は来日当初「のべつまくなしに冗談をとばしては笑いころげるわが人足たち」に見とれずにはおれなかった。1878(明治11)年、セーチェーニ伯の探検隊の一員として来日したオーストリア陸軍中尉クライトナー(Gustav Kreitner 1847~93)は、「日本人はおしなべて親切で愛想がよい。底抜けに陽気な住民は、子供じみた手前勝手な哄笑をよくするが、これは電流のごとく文字どおりに伝播する」とすでに長崎で感じていたのだが、そのあと大阪の染料工場を訪ねたときのことをこう述べている。「わたしたちが入ってゆくとひとりの女工が笑い出し、その笑いが隣の子に伝染したかと思うと瞬く間に全体にひろがって、脆い木造建築が揺れるほど、とめどのない大笑いとなった。陽気の爆発は心の底からのものであって、いささかの皮肉も混っていないことがわかってはいたが、わたしはひどくうろたえてしまった」。

 ・・・<抜粋終了>・・・


 私はこの記述を読んで、信じられない思いでした。
 かつての日本人は、底抜けに陽気な人々だった……、おそらく今の日本人が失った気質の最たるものではないでしょうか。
 これほど江戸時代の人々の生活は、笑いに満ちたものだったのでしょうか。
 今の日本人からは想像もつきません。
 半世紀(50年)ものあいだ東京に住んだ私の印象は、たしかに昭和の時代は活気があった。生活は苦しくても将来はきっと良くなるという共通した人々の思いがあり、そこには希望があり、今より笑いもあった気がします。
 しかし平成、令和と失われた30年を経験した日本人には、そんな希望も笑いも感じなくなりました。
 電車に乗って人々を眺めてみると、なんとなく暗ーく、どんよりとした雰囲気が漂ってきます。陽気さはもちろんですが、幸福感は全く感じられません。

 次は、日本人の礼儀正しさと親切心です。


 ・・・<『逝きし世の面影』、p78~p84から抜粋開始>・・・

 ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム(タイ)、中国と歴訪していたのだが、「日本はこの旅行全体を通じ、歩きまわった国の中で一番素晴しい」と感じた。その素晴らしい日本の中でも、「本当の見物」は美術でも演劇でも自然でもなく、「時々刻々の光景、驚ろくべき奇妙な風習をもつ一民族と接触することとなった最初の数日間の、街上、田園の光景」だと彼は思った。「この烏籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ。これは一体何であろう」と、彼は嘆声をあげている。彼にとって真の見物は、この調子のいい民衆だったのである。日本人の「顔つきはいきいきとして愛想よく、才走った風があり、これは最初のひと目でぴんと来た」。女たちは「にこやかで小意気、陽気で桜色」。「弾薬入れの格好で背中にのっている」帯は、「彼女たちをちょっときびきびした様子に見せて、なかなか好ましい」。
 大師河原の平間寺の見物に出かけると、茶屋の娘2人が案内に立ってくれる。「2人は互いに腕を組んでふざけたり笑ったり、小さな下駄をカタコト鳴らし、紺色の枝葉模様の半纏(はんてん)と赤い腰巻きを小麦と矢車菊の間にちらつかせながら、その漆黒の美しい髪を技巧をこらして高々と結い上げた髷(まげ)が、爽やかなそよ風に乱れても一向気にしない」。水田の中で魚を迫っている村の小娘たちは、自分の背丈とあまり変らぬ弟を背負って、異国人に「オハイオ」と陽気に声をかけてくる。彼を感動させたのは、「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引きとめる招待や花の贈物」だった。「住民すべての丁重さと愛想のよさ」は筆舌に尽しがたく、たしかに日本人は「地球上最も礼儀正しい民族」だと思わないわけにはいかない。日本人は「いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼にみちた民族」なのだ。21歳の若者の感激にみちた感想は、もちろん十分に割引いてしかるべきだろう。だが彼はたしかに誤らぬ事実を探り当てていたのだ。
 リンダウも長崎近郊の農村での経験をこう述べている。私は「いつも農夫達の素晴しい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。……最も大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出して行くこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると……大変有り難うと、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして脆いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。私が遠ざかって行くと、道のはずれ迄見送ってくれて、殆んど見えなくなってもまだ、『さよなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠った声が聞えるのであった」。
 オイレンプルク使節団の人びとは横浜滞在中、しばしば近郊の村々を訪ねたが、どこへ行っても「茶、卵、オレンジなど」でもてなされ、その代価はおどろくべきことに数グロッシュンで十分なのだった。「彼らは不信を抱いたりあつかましく振舞うことは一度もなく、ときには道案内のために、世話好きであるが控え目な態度でかなりの道のりをついて来たり、あるいは子供たちにそれを命じたりした」。子どもたちは外国人とばったり会うと叫び声をあげて逃げ去ったが、「もっとよく知り合いになると、すぐ親切にうちとけ」、群れをなして「オハヨウ」と挨拶した。彼らの洋服はいつも驚異の的で、「方々から手でさわられた」。

 スイスの通日使節団長として1863(文久3)年に来日したアンベール(Aine Humbert 1819~1900)は、当時の横浜の「海岸の住民」について、こう書いている。「みんな善良な人たちで、私に出会うと親愛の情をこめたあいさつをし、子供たちは真珠色の貝を持ってきてくれ、女たちは、籠の中に山のように入れてある海の無気味な小さい怪物を、どう料理したらよいか説明するのに一生懸命になる。根が親切と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である」。彼が農村を歩き回っていると、人びとは農家に招き入れて、庭の一番美しい花を切りとって持たせてくれ、しかも絶対に代金を受けとろうとしないのだった。善意に対する代価を受けとらぬのは、当時の庶民の倫理だったらしい。イザベラ・バードは明治11(1878)年、馬で東北地方を縦断するという壮挙をなしとげるなかで、しばしば民衆の無償の親切に出遭って感動した。それは、旅中味わうことが少なくなかった不愉快を償ってあまりあったのである。
 その日の旅程を終えて宿に着いたとき、馬の革帯がひとつなくなっていた。「もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ」。新潟県と山形県境の悲惨な山中の村で、「みっともない恰好の女は、休息した場所でふつう置いてゆくことになっている二、三銭を断固として受けとらなかった。私がお茶ではなく水を飲んだからというのだ。私が無理に金を渡すと、彼女はそれを伊藤(同行の通訳)に返した」。
 山形の手の子という村の駅舎では、「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を煽いでくれた。代金を尋ねるといらないと言い、何も受けとろうとしなかった。……それだけではなく、彼女らは一包みのお菓子を差し出し、主人は扇に自分の名を書いて、私が受けとるよう言ってきかなかった。私は英国製のピンをいくつかしか彼らにやれないのが悲しかった。……私は彼らに、日本のことをおぼえているかぎりあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心うたれながら出発した」。
 秋田県の北部で洪水に出くわして難儀したバードはこう書く、「私は親切な人びとがどこにでもいることについて語りたい。2人の馬子はとくにそうだった。というのは、私がこんな僻地でぐずぐずせずに早く蝦夷に渡ろうとしていることを知って、彼らは私を助けようと、できることは全部してくれた。馬からおりるときやさしく支えてくれたり、のるときは背中を踏台にしてくれたり、赤い苺を手に一杯摘んで来てくれたりした。それはいやな薬っぽい味がしたが、食べるのが礼儀というものだった」。彼女は「馬子が、私が雨に濡れたりおどろかされたりすることがないように気遣い、すべての革帯としっかりゆわえていない品物が旅の終りまでちゃんとしているかどうか、慎重に眼を配る」ことに、そして「心づけを求めてうろうろしたり、一杯やったり噂話をしたりするために足をとめたりせずに、馬から手早く荷をおろし、陸運会社の代理店から伝票をもらって家路につく」ことに、さらには「彼らがおたがいに対して、とても親切で礼儀正しい」ことに好感を抱いた。ちなみに彼女は陸運会社の駅馬を利用したのである。
 馬子だけではない。彼女は「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、親切で礼儀正しいのは、私にとって不断のよろこびの泉だった」と書いている。彼女は東北・北海道の旅を終えてこんどは関西へ向ったが、奈良県の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断わると、一番としかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな1人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう3人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰さめとなったのである」。伊勢旅行を終えて彼らと大津で別れるときが来た。彼らの頭である「背の高い男」について彼女は書いている。「この忠実な男と別れねばならぬのがどんなに残念か、彼のいそいそとした奉仕、おそろしく醜い顔、毛布を巻きつけた恰好がもう見られなくてどんなにさびしいか、言いあらわせないほどだ。いやちがう。彼は醜くはない。礼儀と親切に輝く顔が醜いということはありえない。私は彼の顔を見たいし、またイエスが幼な児について、『天国にあるはかくのごとし』と語られたように、ある日彼について語られることがあるようにと希むものだ」。
 バードは言う。「ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかにわが国でも、女性が外国の衣裳でひとり旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりと無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない」。

 
 1872(明治5)年から76年まで司法省顧問として在日した仏人ブスケ(Georges Hilaire Bousquet 1846~1937)は、猟や散策の途中、「暑さ、飢え、疲れのあまり」農家に立ち寄って、接待を受けることがしばしばだったが、いつも一家中から歓待され、しかも「彼らにサービスの代価を受けとらせるのに苦労した」という。「この性質たるや素朴で、人づきがよく、無骨ではあるが親切であり、その中に民族の温い気持ちが流れている」。彼は日光旅行のさいに乗った駕龍のかき手についても次のように述べている。駕籠かきは3人で、そのうちの1人が休み、次々と交替するのだが、「交替の時について言いあい一つ聞かなかった。交替者が後の番なのに間違って前を担ごうとすると、『これはおれの番じゃない』と一言いう。続いて大笑いとなる。笑いは日本人には馴染みの状態だからである」。彼らはその日ひどい道を十里も駕龍をかき、疲れ切っていたのだ。「なんという人たちだろう」とブスケは感嘆する。「彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申分ない」。
 ブラックは言っている。「彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持よくした。一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに、通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、『おはよう』という気持のよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった」。

 ・・・<抜粋終了>・・・


 私はこれを読んでいて気づいたことがあります・
 今は「おはよう」という挨拶は、朝行いますが、江戸時代は、朝、昼、夕方とも「おはよう」だったのではないか、と思ったのです。
 当時の外国人が受けた挨拶は、全て「おはよう」だったように見えるからです。
 今の「こんにちは」が、当時の「おはよう」だったのではないか、という気がしました。

 もう一つ、今日本を訪れる外国人がよく口にするのは、日本人はチップを受け取らないということです。
 これは、江戸時代から連綿と受け継いている文化の一つだとわかります。人に親切にするのは、お金を得る労働ではなく、相手に気持ちよく過ごしてもらいたいという心の表れということです。
 それを今は、“おもてなし”といっているのだと思います。

 次は、日本人の好奇心と遊び心です。


 ・・・<『逝きし世の面影』、p84~p86から抜粋開始>・・・

 この自ら楽しみひとも楽しませようとする気質は、ハイネ(Peter B. W. Heine 1827~85)の記述からもうかがうことが出来る。ペリー艦隊の随員である画家ハイネは、下田で奉行が選んだという娘たちの接待受けた。日本人通訳は、「こんなところに美人がいるわけはない」と言うのだが、ハイネの眼からすればみんな結構美人で、とくにその結い上げた髪はすばらしかった。彼女らが内気さやはにかみをまったく示さないので、彼は図に乗って女たちの着物をいじり、そのうち「顎を触ったり、頬をつねったり、その他ふざけてみたり」したが、それに対して、同座した「親族、代官、武士たち」は声を合わせて大爆笑した。もちろん彼らは、紅毛人といえども女好きに変りはないという、いわば人性の普遍性を見せつけられたことがおかしくて笑ったのだろうが、何といってもハイネが無邪気に楽しむ様子が嬉しかったのであろう。これは大らかでのびやかな笑いである。いうまでもなかろうが、娘たちは人身御供にあがったのではない。彼女らもまたこの異人の反応を楽しんだのである。


 ブラックのいう「むきだしだが不快ではない好奇心」についても、その例は枚挙にいとまがないほどだ。明治7(1874)年、金星観測の国際共同事業のために来日したメキシコの天文学者ディアス・コパルピアス(Francisco Covarrubias 1833~89)は、横浜の商店で出会った娘に服や手袋、それに刀、時計を調べられ、しまいには髭までさわられた。それでも彼は、「仕事柄外国人との接触の多い女性は、知性の面では洗練されていないが、しおらしくて子供のように無邪気である」と書いているのだ。
 もちろん日本人の好奇心は、このような無邪気と言ってすむ例ばかりではなかった。バードは東北旅行中、物見高い群衆になやまされつづけた。会津高田では群衆が宿屋をとりまき、ある者は隣家の屋根にのぼり、子どもたちは塀にのぼってそれをおし倒した。坂下(ばんげ)では2千人をくだらぬ者が、バードの出発を見ようと集まっていた。彼女が望遠鏡をとり出すと大潰走が始まった。大人は子どもをおし倒して逃げる。銃とまちがえたのである。秋田県湯沢では、見物人がのぼった隣家の屋根が落ちた。神宮寺の宿屋に泊ると、夜なか人の気配で日がさめた。約40人の男女が部屋の障子をとり去って、バードの寝姿に黙って見入っていたのである。彼女はこのあと北海道に渡り、そこで接したアイヌについて、日本人と違ってけっして好奇心をあらわにしないと書いている。日本人の好奇心は場合によって、はしたなさ、厚かましさ、無神経の域に達することがあった。だがバードは、この物見高い群衆が彼女に失礼な真似をすることなどけっしてないのに気付づいていた。彼らは押し合いへし合いをすることもなかった。
 アンベールは「江戸庶民の特徴」として、「社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」をあげ、さらには「日本人の働く階級の人たちの著しい特徴」として、「陽気なこと、気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子供のようにいかにも天真爛漫であること」と数えあげる。実際、彼らはある意味で、子どものような人びとだった。狐拳を初めとして、外国人の好奇のまなざしにとらえられた大人の遊戯は、その無邪気さにおいて、ほとんどばかばかしいほどのものである。アンベールは書いている。「日本の庶民階級の人々は、まるで子供のように、物語を聞いたり歌を唄うのを聞いたりすることが非常に好きである。職人の仕事や商品の運送などが終るころ、仕事場の付近や四辻などで、職業的な辻講釈師の前に、大勢の男女が半円をつくっているのを毎日のように見かける」。
 日本人が子どもを大切にし、そのため日本がまさに「子どもの天国」の観を呈していることについては、観察者の数々の言及がある。だが実は、日本人自体が欧米人から見れば大きな子どもだったのである。若者たちが、いや若者どころかいい大人たちが、小さな子どもたちに交って凧をあげたり独楽を廻したり羽根をついたりするのは、彼らの眼にはまことに異様な光景に映った。
 1870年から74年まで、福井藩校や東京の大学南校で教師をしたグリフィス(William Ellot Griffis 1843~1928)にとって、「成人して強壮な身体の日本人が、西洋人なら、女の子はエプロンをつけ男の子は巻き毛を刈る歳になると、見向きもしないような娯楽に夢中になっているのはおどろきだった。「この二世紀半の間、この国の主な仕事は遊びだったといってよい」と彼は言う。「日本人のように遊び好きといってよいような国民の間では、子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に、境界線を引くのは必ずしも容易ではない」。もともと牧師志望で、帰国後わざわざ神学校に学んで牧師となったグリフィスは、こういう日本人の子どもっぽい遊び好きに好意的だったわけではない。だが、海軍将校・商人・ジャーナリストという多彩な経歴を持つブラックの目には、羽根をついて顔に墨を塗り合っている日本の大人たちは、まことに愛すべきものに映った。「そこにはただ喜びと陽気があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこかで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見てもうれしがる」。

 ・・・<抜粋終了>・・・


 イザベラ・バード女史が、「望遠鏡をとり出すと大潰走が始まった」には思わず笑ってしまいました。
 鉄砲と勘違いして、我先に逃げ出したといいます。
 たしかに江戸時代の庶民は、鉄砲は知っていても望遠鏡は馴染みがなかったのでしょう。

 私の個人的感想ですが、江戸時代の人々の民度は今の令和の世より高く、素晴らしいものだったと感じます。
 おそらく江戸時代の人々の「愛の度数」は、現在の日本人の愛の度数よりも高かっただろうと思います。それでも、今の日本人が失っていないものもあります。
 “幸福さ”“陽気さ”は失われてしまった感がありますが、親切心や他人に迷惑をかけない配慮、街を清潔に保とうとする心や仕事を勤勉実直にこなす……等々です。
 海外からの旅行者が感激するのは、まだ残っている良き日本人の気質に触れてのことでしょう。
 日本は次の文明で世界をリード(指導)していくといわれています。
 日本人はその役目を背負っており、その片鱗が日本人特有の気質として滲み出ている気がします。


 (2025年8月2日)

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