粒子加速器が捉えた「量子真空」からの実体化とスピンの継承
物理学における最大の謎の一つは、「我々の目に見える物質はいかにして『何もない』真空から現れるのか」という問いである。ニューヨーク州ロングアイランドにあるブルックヘブン国立研究所(Brookhaven National Laboratory: BNL)のRelativistic Heavy Ion Collider(RHIC)において、STAR Collaborationの研究チームは、この問いに決定的な答を与える画期的な観測結果を報告した。
2026年2月5日付の学術雑誌『Nature』に掲載された研究によると、高エネルギーの素粒子衝突によって「量子真空」から飛び出した仮想粒子が実在の物質へと変貌する際、真空中で保持していた「スピン」の相関(アライメント)をそのまま維持していることが直接確認された。これは、真空が単なる「無」ではなく、エネルギーの揺らぎに満ちた構造体であることを実証するだけでなく、物質の質量の99%がどのように生成されるのかを解明する新たな窓を開くものである。
量子真空:活動に満ちた「無」の正体

この画像は、スピンが揃ったクォーク/反クォーク対の束の間の出現に伴う、量子真空中のエネルギー場の動的な変動を描いている。 (Credit: Valerie A. Lentz/Brookhaven National Laboratory)
古典物理学において、真空とはエネルギーも物質も場も存在しない完全な空虚を意味していた。しかし、20世紀に量子力学が登場したことで、この概念は根本から覆された。
仮想粒子のダンス
量子力学の「ハイゼンベルクの不確定性原理」によれば、非常に短い時間内であればエネルギーの大きさは不確定となり得る。このため、真空は常にエネルギーが激しく変動しており、粒子とその反粒子のペアが忽然と現れては、瞬時に消滅(対消滅)を繰り返している。これらは直接観測できないため「仮想粒子」と呼ばれる。
カイラル対称性の破れと真空凝縮
量子色力学(QCD)の理論では、真空は「クォーク凝縮(Quark Condensate)」と呼ばれる状態にあると考えられている。これは、仮想的なクォークと反クォークのペアが真空中に満ちている状態を指す。この複雑な真空の構造こそが、素粒子が質量を獲得し、ハドロン(陽子や中性子など)の中に閉じ込められる「閉じ込め(Confinement)」現象の舞台となっている。
実験手法:RHICが仮想粒子に「命」を吹き込む
RHICのSTAR(Solenoidal Tracker at RHIC)検出器を用いた今回の実験では、プロトン(陽子)同士を光速の99.996%まで加速して衝突させた。
仮想粒子から実粒子への変換
真空中に漂う仮想的なクォーク・反クォークのペアは、通常はすぐに消滅してしまう。しかし、RHIC内での超高エネルギー衝突は、これら仮想粒子に対して「エネルギー的なブースト(Energy Boost)」を与える。エネルギーを得た仮想粒子は、真空へ戻る代わりに実在の粒子、すなわち検出器で捉えられる「実粒子」へと昇華するのだ。
なぜ「ラムダ粒子」なのか
研究チームは、衝突の生成物の中から「ラムダ粒子()」とその反粒子である「反ラムダ粒子()」のペアに注目した。ラムダ粒子が選ばれた理由は以下の3点にある:
- スピンの自己分析能力: ラムダ粒子は崩壊する際、放出されるプロトンの方向にスピン(量子力学的な自転のような性質)の情報が転写される。これにより、粒子のスピン方向を間接的に算出できる。
- ストレンジ・クォークの保持: 各ラムダ粒子は「ストレンジ・クォーク」を1つ含んでいる。真空から生成される仮想粒子のペアがストレンジ・クォークと反ストレンジ・クォークである場合、それらがラムダ・反ラムダのペアへと成長する過程を追跡できる。
- スピン・アライメントの特性: 真空中で生成される仮想的なクォーク・反クォークのペアは、理論上、スピンが常に平行(アライメント)した状態にあることが知られている。
観測結果:真空の「記憶」を保持した物質
研究チームは、数百万件に及ぶプロトン・プロトン衝突イベントのデータを精査した。その結果、驚くべき事実が判明した。
短距離における100%のスピン相関
衝突の直後に、ラムダ粒子と反ラムダ粒子が互いに近い距離(Short-range)で放出された場合、それらのスピンは完全に整列(100% spin-aligned)していた。これは、真空中で形成された仮想的なクォーク対の「量子的なつながり」が、実在の物質へと成長し、検出器に到達するまでの過酷なプロセスを生き延びたことを意味する。
STAR Collaborationの物理学者、Zhoudunming (Kong) Tu氏は「仮想的なクォークのスピン・アライメントが、実在の物質へと変貌する過程を耐え抜き、保持されているのを目にするのは驚くべきことだ」と述べている。
距離による「デコヒーレンス(量子デコヒーレンス)」
一方で、ラムダと反ラムダが離れた場所で生成された場合、このスピンの相関は消失していた。研究チームは、粒子が環境中の他のクォークやグルーオンと相互作用することで、初期の量子的な繋がりが失われた(デコヒーレンスが起きた)可能性を指摘している。
以下の式は、本実験で使用されたスピン相関を抽出するための角度分布の基本公式である。

ここで、

はスピン相関の強さを示し、短距離のペアにおいて有意な正の信号($18 \pm 4 \%$ の相対偏極)が観測された。
この発見が科学界に与える巨大なインパクト
今回の成果は、単なる一つの実験データに留まらない。物理学の根本的な謎を解く鍵を握っている。
質量生成の謎:なぜ人間は重いのか?
ヒッグス粒子の発見により、素粒子の質量獲得メカニズムは解明された。しかし、ヒッグス場によって与えられるクォークの質量は、陽子の全質量のわずか1%程度に過ぎない。残りの99%の質量は、真空中のクォーク凝縮やグルーオンの相互作用、すなわち今回の実験で観測された「真空の力」によって生み出されている。
量子情報科学への応用
クォークが真空から実体化する過程でのスピン相関の保持と喪失(デコヒーレンス)の研究は、将来の量子コンピュータや量子ネットワークの構築に不可欠な「量子から古典への遷移」の理解に直結する。
未来の加速器へ:EICへの期待
RHICは25年にわたる輝かしい稼働を終え、そのインフラは次世代の「電子・イオン衝突型加速器(Electron-Ion Collider: EIC)」へと受け継がれる予定だ。EICでは、今回発見された真空と物質の繋がりをさらに高精度でスキャンし、宇宙の構造を形作る根本的な力を解き明かすことが期待されている。
無から有への「架け橋」
「目に見える宇宙の物質がいかにして真空の『無』と繋がっているのか」。この人類最大のミステリーの一つに対し、STAR Collaborationは「スピン」という量子的な糸口を通じて、その橋渡しを可視化することに成功した。
この発見は、我々の存在そのものが真空の激しい揺らぎから産み落とされた「量子双生児」の末裔であることを示唆している。物理学は今、真空という深淵を覗き込むことで、物質の真の起源を逆説的に解き明かそうとしている。
論文
参考文献
- Brookhaven National Laboratory: Scientists Capture a Glimpse into the Quantum Vacuum



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