コラム3 ロンドンの中にもう一つのロンドン!? シティの歴史はイギリスそのものの歴史よりはるかに古い。

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イングランド銀行 陰謀論

コラム3 ロンドンの中にもう一つのロンドン!? シティの歴史はイギリスそのものの歴史よりはるかに古い。

これを読まれるとイギリスにおいてシティとバチカンが独立した国家に近い存在だと理解
出来るだろうと思います。

要するに世界を牛耳っているのはまさにシティとバチカンということです。

もう一つのロンドン

 皆さんは、イギリスの首都ロンドンの中にもう一つのロンドンがあることをご存じでしょうか。

 

 

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 上の図はロンドン市です。その中央に赤く塗られた部分がありますね。これがシティ・オブ・ロンドン、通称シティと呼ばれる区域です。

 

 ロンドン市は700万人ほどの人口があります。そのうち、シティの人口は11000人ほどです。面積はちょうど1平方マイルほどなので、スクェアマイルと称されることもあります。

 

 シティには、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行、ロンドン証券取引所、保険会社ロイズの本社などが軒を並べています。聖堂教会(テンプル教会)もここにあります。シティはイギリスの金融の中心地となっています。

 

 バッキンガム宮殿や、ロンドン塔、ウェストミンスター寺院はシティの外にあります。

 

シティに与えられた特別な地位

 このシティには、ロンドン市の他の地域にはない、さまざまな特権が与えられています。

 

 まずはシティ独自の旗と紋章があります。

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シティの旗と紋章

 ロンドン市長とは別に、シティの市長が存在します。ロンドン市長は通常の市長と同じメイヤーと呼ばれるのに対し、シティの市長はロード・メイヤーと呼ばれます。貴族の称号であるロードが前につくんですね。ロンドン市長よりも、シティの市長のほうが格上のようです。

 

 シティはロンドン市とは異なる、独自の警察、衛兵を持っており、これらはロードメイヤーの管轄に置かれます。さらには、ロードメイヤーは独自の徴税権ももっています。シティにおいて徴収された税金は、イギリス国家に納められることはなく、すべてシティの税収となります。

 

 ロードメイヤーをトップとする、シティを運営する組織は、コーポレーションオブロンドン(ロンドン会社)と呼ばれています。

 

 極めつけは、イギリス国王は、ロードメイヤーの許可なく、シティに入ることができないということです。

 

 こうしてみると、シティはもはやイギリスの一部ではなく、イギリス国内にある外国のようです。

 

 さらには、シティはイギリス議会に代表を送り込み、シティの利益に反する法律に反対することができますが、ロンドン会社に外部から人を送り込むことはできません。

 

 シティの内部にはイギリス憲法は適用されず、古代ローマの慣習法で統治されています。イギリス議会で決められた諸法も、シティには適用されないものが多数あります。

 

 

 選挙制度もシティ以外の地域では、一人一票ですが、シティには中世から続くギルドシステムが残っており、住民の票に加えて、ギルド票や、シティ内の企業の法人票が加算されます。

 

 ロンドンの中心に、国家から切り離された別世界が存在し、それが国家全体の金融・経済を支配しているイメージです。

 

 このシティの独自性のはじまりは、なんと2000年以上前にさかのぼるのです。

 

ローマによる都市国家の建設

 シティの正体は、古代ローマ帝国によって建設された都市国家、ロンディニウムです。

 

 

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 これがロンディニウムの地図です。現在のシティとほぼ同じ場所にありますね。ロンディニウムとは、当時この地に住んでいたケルト人の言葉で、「沼地の城塞」という意味だそうです。この都市はその名の通り、堅固な城壁で囲まれていました。

 

 真ん中に架かる橋は、「ロンドン橋落ちた~」の童謡で有名な、ロンドン橋です。現在とほぼ同じ場所にかかったこの橋は、紀元前34年にはすでに建造されていました。もっともその後、童謡通り、何度も落ちて架けなおされていますが・・・。

 

 それから500年後、西暦476年に、ローマ帝国そのものは滅亡してしまいますが、ロンディニウムはそのまま存続し、北方交易の拠点となっていました。

 

イングランド建国と、シティの独立

 それからさらに500年後の、927年、七王国(ヘプターキー)が統一され、イングランド王国が成立します。この時点でシティは昔と同じ位置に、そのまま存在していました。

 

 シティの歴史は、イングランドそのものの歴史よりも、1000年以上長いわけです。しかしこの時点で、シティの周りには、果てしない沼地が広がっていただけです。

 

 1066年、ノルマンディー公ウィリアムが、イングランドを征服し、ノルマン朝が成立します。

 

 ウィリアムは、イングランド全土を征服した後、シティに目を付け、これを大軍で取り囲み、攻略しようと試みます。しかしシティの防壁は固く、ウィリアムの攻撃を凌ぎ切ってしまいます。

 

 ウィリアムはシティと講和を結び、シティに独自の市長(ロードメイヤー)を置くこと、ロードメイヤーの許可なしに国王はシティに入ることはできないことを認め、シティに独自の自治権を付与します。

 

 その代わり、シティはウィリアムを国王として認め、その政策に協力することが取り決められました。

 

 こうしてシティは、ノルマン朝イングランド王国の中で、独自の地位を勝ち取り、自治権を確保することに成功したのです。これは今に至るまで続いています。

 

 古代ローマ帝国は滅亡しましたが、その中の都市のひとつが生き残り、古代ローマの法と慣習を維持したまま、現在まで続いている、というイメージです。

 

 

 しかしウィリアムはシティを完全に信用したわけではありませんでした。彼はシティの監視を目的として、シティのすぐ隣にロンドン塔を建造します。

 

 また少し離れたところに、王宮と、ウェストミンスター寺院を建設し、常にシティから目を離さないよう心掛けました。

 

 その後、このウェストミンスター寺院の周りに人々が集まり、シティを取り囲むようにして街が形成されていき、現在のロンドンが出来上がるというわけです。

 

聖堂騎士団の栄光と挫折

 こうしてシティは、イングランド王国の中の自治区として、交易を中心に発展を重ねていきました。そのシティに大きな転機が訪れた、ある事件が起こりました。

 

 それが、中世ヨーロッパを震撼させた、聖堂騎士団事件です。聖堂騎士団は、ネットではテンプル騎士団と呼ばれることが多いようですが、私は「聖堂騎士団」の響きが大好きなので、こちらの名称を使用させていただきます。

 

 

 当時のヨーロッパは、十字軍の遠征の成功と、聖地エルサレムの奪還の報に沸き返っていました。聖堂騎士団は、この十字軍の遠征を守護し、エルサレムに巡礼する人々を保護する目的で、1119年に設立されました。

 

 その後、教皇から正式な認可を受け、貴族の子弟が続々入団するようになり、騎士団は大発展を遂げていきました。

 

 それに伴って、教皇はさまざまな特権を騎士団に与えました。十字軍の護衛料の徴収に始まって、国税の免除、教会への十分の一税の免除、イスラム教国との交易権に加えて、巡礼の人々に用立てるために、利子をとって旅費を貸し付けることまで認めました。

 

 聖堂騎士団は、騎士としての業務以外に、海外貿易及び銀行としての業務まで行うようになり、各国の国王をも上回る、莫大な富が騎士団に集中するようになります。

 

 その背景となったのは、聖堂騎士団がエルサレムにおいて、重大な聖遺物、聖杯や聖櫃(アーク)を発見したのではないか、とか、キリスト昇天にまつわる極秘情報を入手したのではないか、という噂でした。

 

 しかしこの聖堂騎士団は、唐突に滅亡を迎えます。

 

 1307年9月、フランス王フィリップ4世は、聖堂騎士団の罪を並べ立て、騎士団を告発します。これを受けて、教皇クレメンス5世は、騎士団に対して異端宣告を行います。

 

 10月、フィリップ4世はフランス軍を動員し、団長ジャック・ド・モレーをはじめとする聖堂騎士団団員15000人を一斉逮捕。団員の異端審問が始まります。

 

 1310年、団員の大量処刑が始まります。1万人以上の聖堂騎士団団員たちが、ブドウ畑に建てた杭に縛り付けられ、火あぶりの刑に処せられました。

 

 1312年、教皇クレメンス5世は、聖堂騎士団の解散を宣言、財産の没収が行われます。しかし、騎士団の財産はすでにどこかに隠されていて、ほとんど見つかりませんでした。

 

 1314年、黙秘を続けていた、団長ジャック・ド・モレーの審問が再開されます。彼は罪を認めませんでしたが、異端宣告が行われ、そのまま火あぶりの刑に処されます。

 

 かくして栄華を誇っていた聖堂騎士団は、突然の最期を迎えることとなりました。

 

 ヨーロッパにおいて、この物語は、日本史に例えると、ちょうど、大坂の陣における豊臣家の滅亡のような位置づけで語られています。

 

 日本では、豊臣家や徳川家の埋蔵金が発見された、なんて話が出てきますが、ヨーロッパでは、聖堂騎士団の埋蔵金が~、という話になるわけです。

 

聖堂騎士団の真実

 現在ではカトリック教会によって、聖堂騎士団は無実であったとされ、悲劇として語られることが多い、その滅亡は、実際にはどのような意味を持っていたのでしょうか。

 

 ここで改めて、フィリップ4世が告発した、聖堂騎士団の罪状を見てみましょう。

 

・キリストの否定と冒涜

・悪魔崇拝

・黒魔術

・同性愛

・堕落した性行為の数々

・新生児殺し

・児童虐待

・人肉食

・利子をとって人々を借金漬けにしたこと

 

 などの項目が並んでいます。当時の人たちは、「そんなばかな、冤罪だろ」と思っていたようですが、現在のわれわれから見るとどうでしょうか。

 

 なんか同じようなことをやっていた人たちが、どこかにいたような気がしますね。

 

 そうです、聖堂騎士団がやっていたことは、現代におけるディープステートの所業と全く同じなのです。

 

 彼らは、悪魔を崇拝し、子供をさらい、人身売買を行い、悪魔崇拝儀式の捧げものにして、拷問の上、その血肉を食らい、殺害するという行為を行っていたのです。

 

 さらには銀行を中心とする金融システムを構築し、人々に貸し付けて利子をとって債務奴隷とし、私腹を肥やしていたというわけです。

 

 いつの時代も悪魔崇拝者の考えることは同じですね。

 

 フィリップ4世は、さしずめ、中世におけるトランプ大統領というところでしょうか。彼は聖堂騎士団の悪事に気が付き、教皇と連携して、これを告発し、大量逮捕を行って、彼らをせん滅したというわけです。

 

聖堂騎士団のその後

 それでは騎士団壊滅後の聖堂騎士団の残党たちはどこへ行ったのでしょうか。

 

 どうやら彼らは、聖堂騎士団が所有していた莫大な財宝とともに、シティに逃げ込んだようです。

 

 シティは当時のヨーロッパにおける唯一の治外法権地帯でした。シティの中には聖堂騎士団が建設した聖堂教会があります。

 

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シティにある聖堂教会

 

 教会の建物自体は、イギリス王エドワード2世の管理下に入りましたが、例によって、教会の地下にはトンネルが掘られ、現代のディープステートの地下基地のような施設があったようです。

 

 これ以降、シティはヨーロッパにおける悪魔崇拝の中心地となりました。

 

 悪魔崇拝者たちはここを根城に活動をつづけ、再起の時を待っていました。

 

シティによる金融支配

 その後、大航海時代が始まり、悪魔崇拝者たちは、シティに隠した聖堂騎士団の財宝を元手に海に乗り出し、アジア、アフリカ各地を植民地として支配するようになります。

 

 産業革命、工業化の後、シティは、世界金融の中心地となり、そこに潜む悪魔崇拝者たちは、世界の金融を支配し、世界中の植民地支配を目指します。

 

 この野望は、一度はわが国日本によって阻まれました。それについて詳しくは、当ブログ、

shunsasahara.com

をご参照ください。

 

 その後、悪魔崇拝者たちは、グローバル経済を構築し、世界を金融システムを通じて支配する計画に切り替え、それを実行に移しました。

 

 そして彼らの作り上げた世界金融・経済システムの中心に、今でもシティは君臨し続けているのです。

 

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