最後まで持論を貫き、もちろん点滴は最後まで1回もせず、医学的なものは酸素吸入器ぐらいでした
医師の中村仁一先生という方の動画の一部がありました。なんとなく覚えがあったのは、過去の時事ブログで目にしていたからだと思いました。ところが肝心の過去動画は今、非公開になっています。
「今の日本人はまず自然死を知りませんし、医者のほとんども自然死って見たことないんですよ。」「自然死は非常に穏やかに安らかに亡くなっていかれる。ところがそこに医療が濃厚に関与すると非常に悲惨なものになるんですね。」
中村医師のおっしゃる理想の自然死は「本体が飲まず食わずですから餓死なんですね。もう死に時が来てますから欲しくないんですね。(中略)しかも、飢餓状態っていうのは、頭の中からエンドルフィンというモルヒネ見たいな物質が出るらしいんですよ。気持ちよくなるらしい。まどろみの中でこの世からあの世へ移っていくのが実は”死ぬ”ってことなんで。」
この中村医師は、2021年に亡くなられていました。娘さんのブログによると「ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて 父が 永眠いたしました。81歳でした。」とありました。「最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的なものは、酸素吸入器ぐらいでした。」
中村先生は「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」と書いておられたそうですが、無くなる当日の朝まで「トンカツを数切れ」召し上がっていたそうです。
ちょっと可笑しかったのは、中村先生は「ダンボール棺桶(エコ棺桶)」を希望されていて「ダンボールでないと化けて出てやるぞ!」と冗談まじりにおっしゃっていたそうです。しかし市の斎場で断られたそうでダンボール棺桶での火葬は叶わなかったそうです。「化けて出てくるかどうか」問われた夫人は「望むところだ」と言われたそうな。
現状で自然死を選ぶには、そばで献身的に支えてくれる理解者が必要ですが、医療そのものが根本的に変わっていけば誰でも安心して自然死を体験できそうです。
「今の日本人はまず自然死を知りませんし、医者のほとんども自然死って見たことないんですよ。」「自然死は非常に穏やかに安らかに亡くなっていかれる。ところがそこに医療が濃厚に関与すると非常に悲惨なものになるんですね。」
中村医師のおっしゃる理想の自然死は「本体が飲まず食わずですから餓死なんですね。もう死に時が来てますから欲しくないんですね。(中略)しかも、飢餓状態っていうのは、頭の中からエンドルフィンというモルヒネ見たいな物質が出るらしいんですよ。気持ちよくなるらしい。まどろみの中でこの世からあの世へ移っていくのが実は”死ぬ”ってことなんで。」
この中村医師は、2021年に亡くなられていました。娘さんのブログによると「ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて 父が 永眠いたしました。81歳でした。」とありました。「最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的なものは、酸素吸入器ぐらいでした。」
中村先生は「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」と書いておられたそうですが、無くなる当日の朝まで「トンカツを数切れ」召し上がっていたそうです。
ちょっと可笑しかったのは、中村先生は「ダンボール棺桶(エコ棺桶)」を希望されていて「ダンボールでないと化けて出てやるぞ!」と冗談まじりにおっしゃっていたそうです。しかし市の斎場で断られたそうでダンボール棺桶での火葬は叶わなかったそうです。「化けて出てくるかどうか」問われた夫人は「望むところだ」と言われたそうな。
現状で自然死を選ぶには、そばで献身的に支えてくれる理解者が必要ですが、医療そのものが根本的に変わっていけば誰でも安心して自然死を体験できそうです。
父 中村仁一が永眠いたしました。
引用元)
自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板 21/6/7
いつかこのブログを立ち上げた時 最後はこのようなご報告を書くのが私の役目だと思ってはいましたが 2021年6月5日(土)19:30に ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて 父が 永眠いたしました。81歳でした。
(中略)
(中略)最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的なものは、酸素吸入器ぐらいでした。 5月の中旬ぐらいまでは、普段 過ごすリビングと自分の寝室を自らの足で歩き過ごしていたのですが それ以降息切れが激しくなり、今まで周囲が用意し使っていなかった介護ベッドをリビングに移し 日中はその横にあるソファーにて過ごし しんどくなったら ベッドに寝るという生活になってきました。
そこから亡くなるまでの 2週間程 最後まで 特にQ.O.L(生活の中身)にこだわった生き方でした。
生前 父は 遺言5で「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」と書いておりましたが 実は 亡くなる当日の朝まで 妹が作ってくれたトンカツを数切れ 食べていたそうです。
(中略)
最後まで 父曰く ガンでの痛みは無いと言っておりました。
ただ最後の2週間は 骨と皮のような身体にもかかわらず ソファーに座りウトウトと過ごす状態ですので お尻の骨が長く座っていると痛くて起きてしまい 動かしてくれと言っていました。またそのあとベットに横たわる際は呼吸が苦しそうでした。こういった最終段階の状態になった場合 楽にする為 セデーション(鎮痛剤などを使い 意識レベルや痛みを低下させる処置)
を行うのも手だそうです。しかしながら父は やはり最後まで 我々に死というものはこういう物だという事を見せたいのか 使いませんでした。
(以下略)
(中略)
(中略)最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的なものは、酸素吸入器ぐらいでした。 5月の中旬ぐらいまでは、普段 過ごすリビングと自分の寝室を自らの足で歩き過ごしていたのですが それ以降息切れが激しくなり、今まで周囲が用意し使っていなかった介護ベッドをリビングに移し 日中はその横にあるソファーにて過ごし しんどくなったら ベッドに寝るという生活になってきました。
そこから亡くなるまでの 2週間程 最後まで 特にQ.O.L(生活の中身)にこだわった生き方でした。
生前 父は 遺言5で「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」と書いておりましたが 実は 亡くなる当日の朝まで 妹が作ってくれたトンカツを数切れ 食べていたそうです。
(中略)
最後まで 父曰く ガンでの痛みは無いと言っておりました。
ただ最後の2週間は 骨と皮のような身体にもかかわらず ソファーに座りウトウトと過ごす状態ですので お尻の骨が長く座っていると痛くて起きてしまい 動かしてくれと言っていました。またそのあとベットに横たわる際は呼吸が苦しそうでした。こういった最終段階の状態になった場合 楽にする為 セデーション(鎮痛剤などを使い 意識レベルや痛みを低下させる処置)
を行うのも手だそうです。しかしながら父は やはり最後まで 我々に死というものはこういう物だという事を見せたいのか 使いませんでした。
(以下略)
マイコメント
私が子供の頃と言うのは病気で入院してしまった場合を除けばほとんどが老衰で
医者に看取られながら死にゆく人が多かったと思います。
だから、かかりつけ医のような医者がいて、何か具合が悪い時には往診してもらい
診察を受け、状態によっては簡単な薬を処方してもらうという具合でした。
日本で皆保険が始まったのは昭和40年代中頃でしたので、それ以前と言うのは
医者にかかるためには相当なお金が必要で一般の国民には中々出来ないことでした。
そのため、自分で購入した薬や民間薬などを利用して養生している人が大部分です。
また、当時は今のような癌や婦人科疾患、心臓病などはそれほど多くありません
でした。それは食生活がまだ日本的であったことが幸いしていたと思います。
昭和50年代に入り高度成長期が訪れると食生活が欧米化し、それとともに癌や
婦人科疾患が増えて行ったように思います。
今のように亡くなる時は病院でというのが定着したのは昭和の終わりごろでしょう。
終末期の医療と言うのは病院にとっては稼ぎ時を迎えたようなもので、過度の
医療行為が常態化していました。
その後、保険診療報酬体系が変わりかってのような過度な医療は行われにくく
なったようです。
話が飛びましたが、要するに昔はほとんどの人が自宅で亡くなることが多く今の
ように自宅で亡くなると警察が来てあらゆる調査が行われるということもありま
せんでした。
今回の中村医師のような亡くなり方が本来の人の亡くなり方だと思います。
ぜひ、そうした亡くなり方を選ぶように心がけたいものだと思います。
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