たとえば何かのインタビューを受けていて、私が話した言葉の中に取材している人の知らない単語があったとします。その人は、その場ですぐスマホでそのキーワードを検索するんですね。分からなければ今の言葉はどういう意味ですかと私に聞けばそこから話題が膨らむこともあるでしょう。しかし、スマホで検索して答えを出す。今や、スマホは正しい道案内をしてくれる役割を担う道具として、常に考えるより前に検索することが習慣化してしまっています。

 スマホで検索すると、自分で情報を取りに行かなくても生成AIが答えてくれる時代がもう来ていますね。

酒井 依存と言えば、これまでは頭の中で思考して自問自答するという、自分自身との「対話」が思考の言語化であったわけですが、生成AIの登場により、外在する対話風のAIによって自分の思考をまとめられるかのような錯覚さえ生まれつつあります。

 特に対話型AIへの依存は危険です。自分の意見や考えに同意してくれたり、肯定してくれたりすると、「自分の考えは正しい」「社会を変えられる」などと危険な思い込みに陥る可能性がある。自分に都合の良いように対話が引き出されるという生成AIの「自己欺瞞性」や「共感性」にこそ、恐ろしさがあると思います。

 リアルな人間との対話であれば、議論になれば知的な意味での「取っ組み合い」になるようなこともあるでしょう。しかしAIとの対話であればそうした不快なやり取りをする必要はありません。人と議論するよりAIに依存する方が居心地がよくて、四六時中、手放せなくなる。もし小学校の頃からAIに慣れてしまえば、「もう友達も親もいらない」となりはしないでしょうか。自分の「絶対的な理解者」であるAIだけあればいいとなれば、誰もその考えに修正を加えられません。

 海外ではAIと対話しているうちに自死に至った複数の事例が報告されています。

スピードアップ主義と100点主義の落とし穴

『AI脳クライシス デジタルは人から何を奪うのか』書影
AI脳クライシス デジタルは人から何を奪うのか』(酒井邦嘉、集英社インターナショナル)

柳田 現代の文明の危機的な要因というのは幾つかあって、1つは「スピードアップ主義」で、いかに早く合理的に仕事なり研究なりを済ませるかというもの。もう1つは「100点主義」と言っていいと思うのですが、完璧な答えを求めたがる。

 このスピードアップ主義と100点主義というものは、一般社会の中では、たとえば電車の運行のダイヤを過密にして、いかに多くの電車を走らせて、合理的に利益を上げていくかというようなこととなって表れていると思うのです。その行きすぎた事例として、2005年のJR福知山線脱線転覆事故という大惨事が起こったのではないかと私は見ています。スピードアップ主義と100点主義が逆にストレスとなって、エラーを誘導してしまう可能性がある。

 それがAIの場合には、もっと心の中の問題として起こってくるのではないか。事故のように表面的な目に見える形ではなく、内面的な人間の心の営み、あるいは対人関係、コミュニケーションの問題など、そういうところが壊れていくという形で表れるのではないかと思うのです。