破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:個人が尊重される社会」

スポンサーリンク
丸い社会 アセンション

破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:個人が尊重される社会」

今日の破・常識!

大から小へ、三角から丸へ、組織から個人へ・・・

 
少しずつ移行していく方向を意図してください。byアシュタール

アシュタールからのメッセージ

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。 


「個人が尊重される社会」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

 
大から小へ、三角から丸へ、組織から個人へ・・・

 
少しずつ移行していく方向を意図してください。

 
軽い社会は小さいのです。個人が大切にされる社会です。

 
個人が集まっているだけの社会です。

 
いままでのあなた達の社会のように


組織のために人がいるのではなく組織ありきではなく


個人が集まっているだけの社会なのです。

 
見かけは同じように見えるかもしれませんが


まるで反対の社会なのです。

 
それには、個人が自立してください。

 
自立するというのは、自分を大切にするということです。

 
自分が好きなように生きていくということです。

 
ですから、自分が好きに生きていくのと同じように


人も好きに生きてください・・と思えることなのです。

 
人に介入しないということなのです。

 
人に介入しない人たちが集まれば、とても風通しの良い


気持ちの良い社会が出来ます。

 
人に介入しないということは、無関心でいるとか


孤独でいるとかという意味ではありません。

 
お互いエネルギーをつなげますが


でも、自由に介入しないということです。

 
ルールを作らない関係です。

 
こうしなければいけない、こうでなければいけない


こうしなさい・・という言葉がない社会です。


好きなことを、好きなときに、好きなだけ出来る社会です。

 
そして、好きなことをしていることで他の人に提供できるのです。

 
あなたは自分の好きなことを楽しんでいるだけですが


それが提供になるということなのです。

 
人のために働く・・・そのような考え方のない社会です。

 
自分のために好きなことをしている・・


それだけで、人のためになる社会なのです。


みんながそれをすれば、みんな何も困ることはありません。

 
気持ちよくすべてが循環していくからです。

 
そして、みんなが好きなことを好きなように


提供しているだけなので、それを受け取ることも


自然に受け取るのです。

 
していただいたから、何かを返さなければいけない


…などと言う考え方もないのです。

 
していただいた方に、何かお返しをするという


双方向的なことはしません。

 
もちろん感謝はしますが、提供していただくことに


特別な感情はないのです。

 
当たり前のように提供し、当たり前のように受け取る社会です。

 
ですから、気持ちよくすべてが循環するのです。

 

じょうもんや江戸の頃の人たちは、


そのような社会を創造していたのです。

 
人に何かを差し上げることは特別なことではないのです。

 
誰かに何かをしていただくことも


その人に恩義に思ったりしないのです。

 
当然のこととして受け取っていました。

 
これが出来るようになると、みんながとても楽になります。

 
いらないものを受け取ることもなくなりますし


してあげたいと思ったことを迷惑ではないでしょうか?


などと考えることもしなくてすむのです。

 
自分が好きで作った物(サービス)を置いておくだけなのです。

 
それが気に入った人は持って行くし


いらないと思えば持って行かない・・

 
お金の介在しない商店街をイメージしていただければ


分かりやすいかもしれませんね。

 
生活に必要なもの(欲しいもの)はすべてそこにあります。

 
誰かが提供してくれています。

 
そして、自分の必要なものだけ好きなだけ


持って行く事が出来るのです。誰も何も言いません。

 
人々がいればそれが出来るのです。

 

 
丸くて、小さくて、個人が尊重される社会なのです。

 
そちらの方向を求めるならば、そのイメージを膨らませてください。

 
あなたが気持ちよいと思える社会、世界をどんどんイメージして


そのイメージを楽しんでください。

 
イメージ出来ることは現実化出来ます。

 
あなたはどのような生活をしたいですか?

 
素直にあなたの望む暮らしをイメージして遊んでくださいね。

あなたに愛をこめてお伝えいたします」

 


ありがとう、アシュタール! 

マイコメント


人からものをもらったり、何かをしてもらうと私たちは必ず何らかのお返しをしないと

いけないと考えます。

そして、それを怠ると相手の気分を害したり、不評を買うことがあると認識していて

何かをしてあげた人も多くはそう思っています。

無償奉仕のボランティアだって同じです。

1回限りならば負担になることはないので恩返しをしてもらおうなんて考えることも

ないのですが、それが数回以上重なるともはやボランティア意識が消し飛んでしまい

「何、この人は!」という感じになります。

だから、今行われているボランティアというのは限定付きの無償奉仕だということです。

でも、アシュタールの語る丸い社会にはそれがありません。

誰もボランティアとか無償奉仕とは考えていないからです。

それが当たり前であり、何も対価を期待してないからです。

だから、もらう方もあったからそこから持って行くという感じになります。

もちろんお礼は言うと思いますが、その対価に何かを差し出すということはないのです。

そういう社会になれば誰も負担を感ぜず、感じさせることもない関係になります。

こうした社会ではお金もなくていいのです。

江戸時代でも農村部ではこうであったでしょう。

お金のやり取りはなく、ただ手が空いていれば自分の得意なことをしてあげる。

その得意なことは多くあり、それぞれが特技みたいな形で持っていて、それが

使えるときにその役に立てるという感じでしょう。

昭和のころはまだそんな部分が残っていました。

小さな小屋一つ建てるときには近所の人が集まって作っていました。

よほど特殊なものであれば専門の大工に頼むでしょうけど、物置小屋程度なら

柱を組み、屋根を上げればあとは板を打ち付けて終わりですので、それほどの

作業ではなかったようです。

ただ屋根を上げることだけは多くの力が要り、人手も必要でした。

それだけではなく、町内会の集まりでは各家庭から奥さん連中が集まり炊き出しや

料理をして集会の準備をしましたが、今ではそうした光景はなくなりました。

別にそれでお金をもらうわけでもありませんでした。

そうした協力関係が随所に行き届いていたのが昭和のころです。

平成に入ってからはデフレの影響もあり萎んでいきました。

お金も心の余裕もなくなって行ったからですね。

そうした関係はそれほど古い時代のことではありませんのでまだまだそういう

状態に戻ろうと思えば戻れると思います。

そのためには何でもお金で解決するやり方をなくしていくことです。

それをお金ではない別のものに変えていけばいいだけです。

そうすればスムーズに提供し合う社会が出来ていくだろうと思います。



コメント

タイトルとURLをコピーしました