世にも奇妙なフツーの話「縄文の人たちはいつも幸せだったんですよね?」

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世にも奇妙なフツーの話「縄文の人たちはいつも幸せだったんですよね?」

ミナミAアシュタールRadio165

「ちょっとずつ手を貸し合う生活」 

vol.351 「残ってるエネルギー」
vol.352 「ちょっとずつ手を貸し合う生活」

縄文の人たちはいつも幸せで怒りや辛いということはなかったんでしょうか?

この世は対極の世界なので、プラスとマイナス、男と女の様に、
 
幸せと不幸という感情がありますが、そこで聞きたいのが 
 
縄文の人たちはいつも幸せだったんですよね?
 
怒りや辛いなどの感情は全くなかったのでしょうか?
 
対極の世界なのに、幸せな感情だけでもバランスは
 
取れるのでしょうか?
 
 
・・・というご質問をいただきましたぁ~^0^
 
では、アシュタール、よろしくお願いしま~す

縄文の人たちとあなた達とは幸せの概念が違っていたんです」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。
 
幸せの概念の違いですね。
 
じょうもんの人たちにももちろん感情はありました。
 
身体的にも痛い事もありました。
 
 
ただ彼らはそれに抵抗しなかったのです。
 
良い悪いという判断もなかったのです。
 
そこがいまのあなた達の社会とは違うところなのです。
 
 
幸せというのは状態です。
 
条件ではありません。
 
 
あなた達の幸せは概ね物質的に恵まれている、人間関係
 
(パートナー、友達、親子など)が良好だということですね。
 
それは条件ですね。
 
あなた達は、お金があれば幸せ、大きな家に住んでいれば幸せ
 
大好きな人と一緒にいられれば幸せ、旅行に自由に行ければ
 
幸せ・・というように何かが出来れば幸せだと表現します。
 
 
でも、じょうもんの人たちは条件で考えることが無かったのです。
 
たとえば、人を好きになったとして、あなた達はその人が自分も
 
好きになってくれる(相思相愛)な状態が幸せであり、その人と
 
相思相愛になれなければ不幸せ、かわいそうな私という考えが
 
ありますが、じょうもんの人たちは相思相愛にこだわらないのです。
 
自分がその人を好きだと思う気持ちだけで十分満たされたのです。
 
じょうもんの人たちには所有という概念がなかったので
 
もちろん物質的にも人より多く持っていることに幸せを感じる
 
ということもありませんでした。
 
 
怒りという感情もありましたが、何かを取られた、裏切られた、
 
傷つけられた、ということもありませんでしたのでほとんど
 
感じることがなかったということです。
 
何かイヤだと思うことをされたとしても(わざとではなく
 
何か考えの行き違いなど)それを正直に伝え、相手と話しあい、
 
お互いの気持ちを理解しあうという事をしっかりと
 
していましたので後々まで引きずることもありませんでした。
 
生活に余裕があったので気持ち的にも余裕があって、人に対して
 
あまりトゲトゲすることもなく、ちょっとしたことでイライラする
 
ということもなかったのです。
 
 
そして、そもそも二元的な概念、善悪、良し悪し、対極の世界
 
という概念が無かったのです。
 
すべてがOKの考えでしたので(もちろんイヤなことをすべて受け入れた
 
ということではありません、イヤなことはイヤだとはっきりと伝えて
 
いました)善悪などで判断することはなかったのです。
 
善悪の判断は宗教で後にあなた達の支配者に刷り込まれたもので
 
あるということはお伝えしたいと思います。
 
神の言葉(支配している宇宙人の言葉)をもとにしてつくられた
 
判断の基準です。
 
常識、倫理観、道徳観なども同じです。
 
いまのあなた達はそれを判断基準として、判断することを刷り込まれて
 
しまっているのです。
 
 
ですから、幸せだぁ~と思うこともなければ、不幸せだぁ~と
 
思うこともなかったのです。
 
難しいですか?
 
 
幸せが良い事で、不幸せが悪い事だという判断が無かったのです。
 
何が幸せで、何が不幸せだという判断が無かったのです。
 
常に自分でいることだけでした。
 
何かが起きたらそれもOKなのです。
 
身体を脱ぐ事にも抵抗はしません。
 
身体を脱ぐことは特別な事、怖い事、悪い事、忌む事では
 
無かったのです。
 
時期が来れば(それは人それぞれです)身体を脱ぐのは当たりまえ
 
だと思っていますので何も考えず受け入れます。
 
(じょうもんの中期くらいまでは、もうテラでの経験はいいかな
 
と思えば自分で身体の機能を止めて身体を脱ぐということも
 
出来たのです。自分で決めて身体を脱いでいたのです)
 
 
病気になる事が不幸せだという考えはありませんでした。
 
ケガをすることも不幸だとは思わないのです。
 
好きな人が自分の事を好きだと思ってくれるから幸せなどと
 
条件的な何かで幸せだと思うこともなかったのです。
 
 
常にニュートラルな状態だと表現すればわかりやすいでしょうか?
 
だから、常に満たされていたのです。
 
ご理解いただけましたでしょうか?
 
 
あなたに愛をこめてお伝えいたします。」
 
 
 

ありがとう、アシュタール! 感謝します。

マイコメント

まったく今の社会とは違いますね。

現代社会文明はすべてが善悪という二元論を基準にしています。

感情にしてもそれが自分に取って悪いことなのか良いことなのかで判断し

嫌なもので悪いと思えば怒りの感情が出てきます。

もし、それが善悪という概念がなければそもそも良い悪いの判断がありません。

従って誰かが悪いと責めることもないし、ましてや自己嫌悪から自分を責める

ということもなかったはずです。

そして、現代病と言われるうつ病などにも罹ることはあり得ないことです。

うつは感情の問題なので感情的な善悪がなければうつになるはずはないのです。

縄文の人たちの幸せの概念というのを私たちの尺度で見てはいけないのです。

現代社会の基準で眺めれば大きな間違いを犯します。

そういう点ではむしろ私たちの方が異常な幸せな概念を刷り込まれていると

いうことです。

私たちの幸せの概念の根底にあるのは所有という概念です。

そのため、その所有を求めて必ず争いが起きます。

そのように創られた社会だということです。

まずはそのことに気付かないといけません。

そして、縄文の人たちの幸せというものを改めて考えてみましょう。

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