「『寒くないの?』の声かけだけで不審者扱い」世界一血が通わない国・日本で進行する孤立化という病

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犯罪と不審者 社会問題

「『寒くないの?』の声かけだけで不審者扱い」世界一血が通わない国・日本で進行する孤立化という病

かっては当たり前のように行われ誰も通報しない世の中だった

はたして見知らぬ人に話しかけるのは“罪”なのか。ある調査では、飛行機内で知らない人に話しかける割合は、日本人が15%で“世界最低”だった。コミュニケーション戦略研究家の岡本純子さんは「人のつながりは希薄化し、他人との垣根は日に日に高くなって、個のアトム化(孤立化)が加速している。人に頼るより、人を恐れる社会になっている」という――。

50代女性が少年に「寒くないの?」で不審者扱いされる日本

先日、私が住んでいる都内のある区から携帯にLINEでアラートが送られてきた。「声がけ事案の発生について」という題名で、以下のような内容だ。

内容:2021年12月○日、午後2時50分ごろ、○○区○丁目の路上で、小学生(男の子)が下校途中、女に声をかけられました。

■声かけ等の内容:寒くないの? どこの学校に行ってるの?
■不審者の特徴:50~60代女性

お子様には、少しでも「こわい」と思ったら、大声で助けを求めたり、防犯ブザーを鳴らすなどして、すぐににげるよう指導してください。

「私も不審者になるのか」。まさに50代のおばちゃんの筆者はモヤモヤした気持ちになった。さすがに、路上で突然声をかけることはないものの、例えば、居住マンションのエレベーターの中で、見知らぬ子供たちに挨拶したり、ちょっとした会話をしたりすることも多いからだ。

真冬の寒い時期に、少年が短い半ズボンでいたら、「おお、寒そうだね」などと言ってしまうかもしれないし、薄着で心細そうであれば、虐待を疑って、声をかけてしまうかもしれない。

特に、なぜか年を取ると、口が緩むのか、独り言のつもりが、ふと人に話しかけてしまっているという人もいる。うちの母(80代)もそうだが、お年を召した女性が、「あら~、かわいいわね。年はいくつ?」などと赤ちゃんの母親に声をかけている姿もよく見かける。

筆者自身、話し方のコーチングをなりわいとし、日ごろから「コミュニケーションは慣れと場数が9割」と説いていることもあり、自分も挨拶やちょっとした声かけ、笑顔などを実践している。

実際に、人は人との付き合いややりとりの積み重ねの中から、折り合い方の知恵を学んでいくわけで、「見知らぬ人=すべて敵、危険な人」となってしまえば、コミュニケーションを学ぶ機会を逸してしまう。誰でも、見知らぬ人と話が弾み、楽しく実りある経験につながった経験もあるのではないか。

一方で、現代社会においては、どこに真の危険人物は潜んでいるかはわからないし、実際に、話しかけられた側として、本当に恐怖心を覚えたのであれば、そういう思いをさせた人に配慮がなかったとも言えるかもしれない。

筆者自身、小学生の頃、通学途中に、「車に乗らない?」と見知らぬ男性に声をかけられ、とてつもない恐怖心を覚えた。今でも、そのシーンが脳裏によみがえるほどのトラウマとなっている。

どちらの言い分もわかる。だからこそ、モヤモヤが止まらない。

□ 見知らぬ子供には基本話しかけるべきではないのか。
□ 子供は見知らぬ人には挨拶をするべきではないのか。
□ 気持ち悪がるかもしれないから、見知らぬ子供には笑顔も見せるべきではないのか。
□ 例えば、迷子になっている子供がいても、あらぬ疑いをかけられるので声をかけるべきではないのか。

特に男性の場合は、余計に気を使わざるをえない部分はあるだろう。リスクを回避するためには、あらゆる疑いを受ける可能性のあるコミュニケーションを排除する、という方向に思考が傾かざるをえないのは一種の防衛本能だろう。

人に頼るより、人を恐れる社会になっていく

先日、こんなことも目撃した。

JR新橋駅のホームで、高齢の大柄な男性が体調悪そうに立っており、それを小柄で上品そうな同年代の奥さんが必死になって支えていた。今にも倒れそうな男性の横を大勢の人が気づかぬように、横切っていく。

見るに見かねて、声をかけると、奥さんは最初、「大丈夫ですから」とサポートを固辞された。「本当に大丈夫ですか」と私が畳みかけると、申し訳なさそうに、「(夫の)気分が悪いので、休ませたい」と言う。しかし、近くにベンチはない。私が片方の肩を持ち、何とか連れていけないかと考えていると、幸い、通りがかった中年の男性が、「私がおぶって運びますから」と助け船を出してくれた。ちょっと離れたベンチまで運んで、高齢男性を座らせたが、男性は本当に具合が悪そうだ。

「救急車を呼んだほうがいいかもしれませんよ」「ほかに何かできることはありませんか」と声をかけたが、奥さんはとにかく恐縮しきりで、「申し訳ありません」とひたすらに頭を下げて謝り、「お名前を教えてください」と私たちに何度も繰り返すばかり。まるで、助けを求めることが「迷惑」であり、すべてを自分たちで解決しなければと思い込んでいるかのような様子に、胸が締め付けられた。

2021年7~9月、JRを含む交通事業者83社合同で「声かけ・サポート」運動を展開した。だが、こうした啓発活動もむなしく、人々は「自己責任」「迷惑」という意識に縛られ、ちょっとしたSOSサインを出すこともためらう人がいる一方で、助けたくても「かえって迷惑かも」「お節介かな」「嫌がられるかな」などと遠慮して、声をかけられない人がいる。

職場では異性社員の容姿をほめてはいけない。結婚しているかどうかを聞いていけない。就活の面接では学生に好きな本を聞いてはいけない(「就職差別」につながる「不適切な質問」として厚生労働省が質問しないように指導している)……。昨日までは許された言動が、今日はご法度になっている。

どんどんと変わる「コミュニケーションの常識」になかなかついていけないから、口を閉じるしかない。特に、リスク回避志向の強い日本では、人付き合いがもはやリスクでしかないと、「人の断捨離」を推奨するなど、他人を遠ざける風潮も広がっているように感じる。

近所の付き合いも地域の縁も失われ、核家族化が進み、個のアトム化(孤立化)が加速する。人のつながりは希薄化し、他人との垣根は日に日に高くなっている。そして、人に頼るより、人を恐れる社会になっていく。

その結果として、日本では「他人恐怖症」の傾向が非常に強くなっている。ある調査によれば、「初めて会う人と話すこと」が苦手な人は63%にも上るという。

旅行サイトExpediaの調査で、機内で知らない人に話しかける割合は、日本人はたった15%で、堂々のワースト1位だった。トップのインド(60%)、メキシコ(59%)、ブラジル(51%)、タイ(47%)、スペイン(46%)と比べてもその差は歴然だ。

機内で手に消毒ジェルを出している女性
写真=iStock.com/xavierarnau ※写真はイメージです

ちなみに日本以外の下位5カ国は、韓国(28%)、オーストリア(27%)、ドイツ(26%)、香港(24%)で、それでも日本とは、10ポイント近くの差があった。

一方で、機内の迷惑行為に対して、何も言わずに黙っていると答えた人の割合は、日本人では39%と、世界一「我慢強い」側面が浮かび上がった。

「声をかけ合う、ちょっと話を聞いてあげる」それで人は幸せに

「人の健康や幸せを決定づける要因は食事でも、運動でもなく、実は人との関係性であり、心地よく安心できるつながりこそが人生の満足度を大きく高める」

 

ということは世界の多くの科学的研究から明らかになっている。孤独は、1日たばこ15本を吸う害悪に相当し、肥満やアルコール依存症の2倍、健康に悪いとされている。

虐待、貧困、いじめ、依存症、犯罪……。多くの社会的問題の根底には「孤独・孤立」という共通項がある。「孤独は美しい」などを美化する向きもあるが、そういう人は本当の「弧毒」の身を削ずるつらさを知らないのかもしれない。

家族や地縁、会社などという縛りの強いつながりが失われつつある中で、本来、社会的動物である人間(日本人)を救うのは、ちょっとしたおしゃべりのできる「弱い紐帯」というつながりなのかもしれない。

ちょっと声を掛け合う、ちょっと話を聞いてあげる、そんな関係性の中でも人は自分の存在を認められることで、十分に幸福感を感じることができる。

「他人」は毒にもなるが、薬にもなる存在だ。誰もが毒を恐れて、殻に閉じこもり、武装モードで固い殻を突き合わせてすり減らしあう社会はディストピアでしかない。殻を脱ぎ、心を許す関係性をつくることのできる場(コミュニティ)をどう作るのか。そして、人と人をつなぐ「コミュニケーション」という架け橋をどう築き上げるのか。

2つの「コミュ力」がこの世知辛い時代を生き抜く最強の「処世術」であり、日本社会再興のカギになるのではないだろうか。

マイコメント

私が子供の頃や高校生のころまでは知らない人に声をかけるのは普通でった。

見知らぬ子どもが一人で歩いていたりすると心配そうな大人が必ず声をかけていた。

また、今回の飛行機で隣席の人に声をかけるかと言われれば私も「あまり声をかけない」
と答えるだろう。

しかし、昭和の時代は誰にでも気軽に声を掛けられる時代でした。
声を掛けられた人も見知らぬ人であっても自分の紹介や相手の話す素性を頼りに色んな
会話が弾んだ時代です。特に当時は夜行列車に乗ることも多くそこでは知らない人同士
和気あいあいを会話を楽しむ光景が至る所で見られた時代でした。

声を掛けられることに特に不安はなく、かえってそれが犯罪防止につながる役目も
担っていました。子供が独り歩きしていたら必ず声を掛けられます。

「どこから来たの?」「家はどこ?」「どこ学校に通っているの?」「何年生?」
とか聞かれ、もし、それが家出少年だったりするという可能性もあったからです。

だから、不審な人が居たら必ず声を掛けたり、警察に通報されたりしました。
別に声をかけることは今のように犯罪行為とも取られるものではありませんでした。

近年、子供の誘拐や不審な大人による犯罪などがマスコミなどで報道されるようになり
人々の防犯意識が高まったこともありますが、その根底には人に対する不信感があり
それが防犯意識をむき出しにさせています。

人を見たら泥棒と思えと言うことわざがありますが、今がまさにそうした時代です。
本当に人を信用しない日本社会という呼称がぴったりの日本社会です。

昔は人々の付き合いが広かったので道を歩いている人を見てもあれはどこの誰々と
自分が知らなくとも必ず誰かが覚えている時代でした。それは子供であってもです。
どこどこの子供とわかっていたのです。
だから不審者の見分けがつくので逆に安心な社会だったのです。

今はそうではありません。隣近所との付き合いはほとんどなく、多くが会社関係や
親戚に限られるので道を歩いている人が誰かということはほとんどわかりません。
そのために逆に声をかけづらいのです。

人と人との交流が失われている今だからこそ起きている問題なのかもしれません。
そして、互いの信頼がなくなってきているからこそ起きている問題です。



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