世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:その問いはとてもナンセンスです」

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究極の選択 アセンション

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:その問いはとてもナンセンスです」

混迷を深めるだけの「トロッコ問題」

とても興味深いご質問をいただきました^^
 
 
トロッコ問題”について宇宙人がどのような
 
見解をされるか知りたいです。
 
トロッコ問題とは、ある人を助けるために他の人を犠牲に
 
するのは許されるか?という形で功利主義と義務論の対立を
 
扱った倫理学上の問題です。
 
 
これには答えてくれないだろうなぁ~って思っていたら
 
アシュタールが答えてくれたのでちょっとびっくり^0^;
 
 
では、アシュタール、よろしくお願いしま~す^^
 

「その問いはとてもナンセンスです」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。
 
何故いま起きてもいないことを論議しなければいけない
 
のでしょうか?・・とお答えしたいと思います。
 
あなた達はよくこのような事を考えます。
 
それは起きていないことです。
 
 
でも、実際起きたらどうしますか?あらかじめいろいろ考えて
 
置いた方が良いのではないでしょうか?と思うかもしれませんが
 
それは何も考えたことにはならないのです。
 
実際起きてもいないし、それもこの設定にはかなりムリがあります。
 
 
どちらも動けない状態にいる・・という事ですが、そんなことは
 
実際の現場ではありえません。
 
そうですね。
 
そして、一人だけに選択をさせることもありません。
 
そして、まずトロッコを止めるという選択もないのも
 
とても不自然です。
 
 
これは実際には起きないという事です。
 
このような状況は起きないという事です。
 
このような状況は実際には起きないという事を前提に、
 
では万が一起きたらどうしますか?という問いはとても
 
ナンセンスですね。
 
 
他にも何かあった時、どっちを助けますか?的な話は
 
よく聞きますね。
 
その問いはとてもナンセンスです。
 
どちらの方が大切ですか?という選択をしなさいと言う事ですが
 
それはその時の状況によって違うのです。
 
実際に起きたときに考えればいい事です。
 
それをまだ何も起きていない時に考えても仕方がないのです。
 
 
そして、あなた達は0か100かの考えをしがちです。
 
こちらかあちら・・どっちかを選びなさい・・と言う事ばかりを
 
考えさせられているのです。
 
選択肢の中から選ばなければいけないと思い込んでしまうのです。
 
 
提示された選択肢以外にも道はあるのです。
 
でも、選択肢の中しか道はないと思わされているので一生懸命その中
 
だけで選ぼうとしてしまうので柔軟性が無くなってしまいます。
 
 
トロッコが暴走したらみんなに知らせればいいのです。
 
大声で知らせることでみんなでどうすればいいか考えることが
 
出来ます。
 
トロッコを止めるためにはどうすればいいかを考えることも
 
できます。
 
そうですね。
 
そういうのは(トロッコを止める)無しで考えることに
 
意味があるのです、
 
倫理を問うためにはどちらかを選択しなければいけないのです、
 
という事なのでしょうか?
 
 
ムリな設定を作ってその中でどちらかを選ばなければいけないと
 
いう方が倫理的におかしいのではないでしょうか?
 
倫理的に考えるための問いであるならば、どちらも助けるために
 
どうすればいいでしょうか?と考える方がいいのではないでしょうか?
 
 
私はそう思います。
 
どちらの命を助けるか?という問いは倫理的ではありません。
 
どうすればどちらも助けることが出来るかという問いの方が
 
倫理的だと思います。
 
 
もし、本当にそうなった時のためにこのような事を考えておく
 
必要がありますというならば、もっとどちらも助かる方法を
 
考えてください。
 
 
これは試しです。
 
人を試すための問いです。
 
試す事はとても失礼な事です。
 
試すという行為自体がもう倫理から離れています。
 
これは哲学でもありません。
 
道徳心がどうのこうのという事でもありません。
 
 
とにかく起きるはずのないような事を問うても仕方がないのです。
 
どちらが正解かなどわかるはずがないのです。
 
どんなに考えても答えなど出ないのです。
 
 
そんな事を考えるのであれば楽しい事を考えてください。
 
 
私と誰かとどっちが大切?
 
一人の命と複数の命のどちらが大切?
 
助けるとしたらどっち?
 
とてもナンセンスな問いです。
 
 
もし万が一、そのような状況が起きたらその時考えてください。
 
どちらも助けることが出来るように考えてください。
 
臨機応変に考えれば必ず方法は見つかります。
 
 
これは、どちらかを選ばなければいけないと思い込まそう
 
とする問いです。
 
倫理を問うのでも、道徳を問うのでも、愛を問うのでも
 
ありません。
 
とてもナンセンスな問いであると私は思います。
 
 
あなたに愛をこめてお伝えいたします。」
 
 
 

ありがとう、アシュタール! 感謝します。

マイコメント

アシュタールの洞察力には本当に頭が下がりますね。

私たちは普段からいつもこのような問いをしていると思います。

いわゆる究極の選択というものです。

テレビや雑誌やネットなどでもそうした問いが出てきます。

でも、どの問いも中途半端で問いかけだけで終わっています。

それは結局は読んでいる人や見ている人に混乱をもたらすだけで

何の効果もありません。

アシュタールが語るように「トロッコを何とかする」「両方が助かる

道を考える」というのが正解だと思います。

私たちはややもすると何かを為すには犠牲が必要という考え方を耳に

することが多いだろうと思います。

特に宗教ではそうした問いが出て来て、その中の崇高的な考えは

はっきり言って「他人のために自分を犠牲にする」というものです。

しかし、はっきり言ってそれもおかしな考え方です。

犠牲となって亡くなった人がいたりすればそれはヒーロー扱いされ

多くの人々の称賛の対象となります。

実際にそう言うことは過去に多くありました。

犠牲になった人々はあえて選んだ結果なのでそれ以上言うことはありませんが

もし、これが戦争というテーマだったらどうなのでしょう。

お国のために自分を犠牲にするという考え方につながり、実際そういう事例を

多く出してきたのが戦前に行われた戦争です。

それが結果として何をもたらしたのでしょうか?

日本国民に多大なる悲しみと悲惨な生活をもたらしました。

多くの日本国民が犠牲となって亡くなったのに、そうした犠牲を半ば強要した

戦争を指揮していた人たちはどうだったのでしょうか?

その多くは生き残ったはずです。

中には戦争犯罪で裁かれた人もいますが、逆に助けられた人もいたのです。

その典型は神とあがめられた人たちです。

だから、究極の選択へいざなうような質問はナンセンスであるという

アシュタールの指摘は正しいです。

私たちはその質問の持つ意図と目的に気付くべきでしょう。



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