世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:生と死への尊厳」

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菊の花 アセンション

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:生と死への尊厳」

寝たきりより「安楽死」ってどうよ?

何か最近、”安楽死”っていう言葉がチラホラ
 
目に入ってきます。
 
そして、こんな記事も目にしました。
 
 
 
 
「近い将来、非常に高い医療費のために病気や
 
健康状態が悪い人々の生命を終わらせるために、
 
このような審査委員会が必要になるでしょう」
 
 
・・だって(驚)
 
マジなのかな?
 
本気で思ってそうで怖い!
 
 
寝たきりはイヤだけど、だからといって”安楽死”は
 
どうよ・・って思っていたらアシュタールからメッセージが
 
来ましたのでお伝えしますね^^

「生と死への尊厳」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。
 
みんなで暮らせばいいのです。
 
いま世界で起きている問題は、みんなで暮らせばほとんど
 
なくなります。
 
 
この問題も個人、個人が孤立させられてしまっているから
 
起きてきているのです。
 
人々が手を繋ぎ合って、得意なことを提供しあえば
 
このような問題は起きてこないのです。
 
 
みんなで手を取り合って暮らしていれば、
 
いま感じている不安や心配がなくなり
 
ストレスも軽減します。
 
だから、病気にもなりにくくなります。
 
そして、寝たきりということもなくなるのです。
 
寝たきりという状態は、最近になって起きてきたことです。
 
寝たきりというのは医療ビジネスによって引き起こされる
 
ものです。
 
 
いまの医療は長生きさせることを良しとしています。
 
だから、生に対する尊厳がなくなってしまっているのです。
 
身体を動かせなくても、口から食べることが出来なくても
 
意識がほとんどない状態でも、とにかく呼吸さえさせて
 
おけば良いと思っています。
 
それが医療だと思っているのです。
 
 
そして、”安楽死”という考え方も生に対する尊厳は
 
ありません。
 
ちょっと聞くだけでは、生に対して尊厳があるかのように
 
思えますがそうではありません。
 
死ぬという事に対しての尊厳もありません。
 
 
話を戻しますが、みんなで手を取り合って生活していれば
 
寝たきりにはならないのです。
 
年齢を重ねていけば体力的にできない事も増えてきます。
 
でも、知識は増えていきます。
 
身体が若い頃よりも動かなくなっても、知識を提供する
 
事が出来ます。
 
知識を提供することができれば、生きているという実感を
 
持つことができ、生き生きと生活することが出来ます。
 
 
だから、寝たきりになる事もないのです。
 
いまあなた達は年を重ねると役に立たなくなって来ると
 
いう大きな思い違いをしています。
 
そう思ってしまうようにミスリードされているのです。
 
役に立たなくなった自分は何も出来ないという気持ちが
 
身体も衰えさせてしまうのです。
 
 
そして、年を重ねると病気になるのが当たり前で、
 
痴ほうという症状も出て来るのも当たり前だと思い込んで
 
しまうので、自分でそういう現実を創造するのです。
 
 
年を重ねても元気で楽しそうな方は、自分が出来ることを
 
しているのです。
 
年を重ねて出来なくなったことにフォーカスするのでは
 
なく、年を重ねたから出来ることにフォーカスして
 
楽しめるのです。
 
 
年を重ねるという事にも尊敬の気持ちがなくなって
 
しまっているので”安楽死”などという発想になるのです。
 
年を取って役に立たなくなった人は社会のお荷物だと
 
思わされているのです。
 
 
政府や国も社会保障にお金をかけたくないと思っていますので
 
そのような風潮を作り出しているのです。
 
 
例え、身体が動かなくなったとしても、出来ることは
 
あります。
 
知恵と知識を使えば、いくらでもやれる事はあるのです
 
それを考えることを放棄してしまうから、役立たずに
 
なったと思うのです。
 
 
そして、人々が分断させられ、孤立してしまっているので
 
その知恵と知識を使う機会がなくなってしまったのです。
 
人々が手を取り合って暮らしていけば、まず寝たきりという
 
人はいなくなります。
 
そして、役に立たないなどという発想もなくなります。
 
必ず人に提供できることがあるのです。
 
それが分かれば自信が出来ます。
 
自信があれば”安楽死”を望むことなどありえません。
 
 
そして、生き延びるためだけ、呼吸をさせるためだけに
 
生かされることもなくなりますので、家族が”安楽死”を
 
望むこともないのです。
 
 
楽しい社会では、死は自然に受け入れられます。
 
死ぬことを怖がることもありませんので、管につながれても
 
なんとか生きていたいとも思わないのです。
 
 
それが生と死への尊厳なのです。
 
個人の尊重なのです。
 
 
支配者たちはあなた達を労働力としか見ていません。
 
だから、”安楽死”などという発想が出て来るのです。
 
そして、医療はビジネスです。
 
生活の質など関係なく、ただ長生きさせておけば
 
儲かるのです。
 
それをみるのがツラいと思う家族が”安楽死”を
 
求めてしまうのです。
 
本人も役立たずになったからと思い”安楽死”を
 
求めてしまうのです。
 
 
そして、若い人たちも”安楽死”にある意味希望を持って
 
しまっています。
 
それは、社会から逃げたいという気持ちです。
 
死ねば楽になれると思ってしまっているのです。
 
自分で死ぬのは怖いし、無理だけど、その方法ならば
 
楽だろうと思ってしまっているのです。
 
”安楽死”という言葉がきれいに聞こえてくるのです。
 
 
そのような問題も、人々が手を取り合って、提供し合って
 
生きていればなくなります。
 
誰かがそばにいると思えれば孤独も感じませんし、
 
自分も提供できることがあると思えば自信もつきます。
 
自信ができれば生きることから逃げようなどと
 
思わなくなります。
 
 
みんなで提供しあう丸い社会になれば、いまの社会で
 
起きている問題はほとんど解消されるのです。
 
今回は話があちこちに飛んでしまいましたが、すべての
 
根っこは同じだという事をお伝えしたいと思います。
 
 
あなたに愛をこめてお伝えいたします。」
 
 
 
 

ありがとう、アシュタール! 感謝します。

まいこめんと

何とかして人類を減らしたんでしょうね。

それも反体制的で生きていてもらっても困る人を優先させるとか・・・。

あり得なくはない話ですね。

近い将来人類が彼らの操り人形となったときに病気や体力の弱っている人が

長生きされても困るので、こうした風潮を作り上げ、彼らに選ばれた人は

不必要な人として「死の審査委員会」安楽死を勧告され実行される。

そう言う時代の到来を予告しているんです。

しかし、そんな戯言に耳を貸してはなりません。

私たちは自分の自由意思で死の選択を出来る存在なのですから「何とか

委員会」に死の宣告をしてもらう必要はさらさらないのです。

そんな話は無視しましょう。

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