破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:罪悪感を感じる必要はない」

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罪悪感 アセンション

破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:罪悪感を感じる必要はない」

今日の破・常識!

罪悪感のほとんどは、常識、道徳観、倫理観、宗教観による

 
思考の操作によるものです。byアシュタール

アシュタールからのメッセージ

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。  


「罪悪感を感じる必要はない」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。

 
あなた達を支配・コントロールしている人たちは


あなた達に罪悪感を刷り込みます。

 
罪悪感を持たせることで


あなた達の思考を操作することが容易になるからです。


何かにつけて、自分が悪いから仕方がない


悪い自分が我慢すればいい・・と思ってくれるからです。

 
自ら進んで我慢しようと思ってくれるからです。

 
原因になっていることに目を向けるのではなく


自分の責任でこうなったんだから、

 
自分で責任を取らなければいけないと思ってしまうのです。

 
生活が苦しくなっているのも、自分の努力が足りないからだ・・と思い

 
また我慢して頑張ろうと思います。

 
誰かに意地悪されても、なにか自分にいたらないところが


あったから仕方がないなどと思って、意地悪している人に


しっかりと目を向け、この状況をどう対処しようかと考える前に


自分を責めてしまう方向へ考えてしまいます。

 
何が原因でこの人はこういうことをしているのでしょうか?・・と

 
考えることもしなくなり、ただ意地悪を受け入れてしまうことになります。

 
ひいては、自分には価値がないから、こういうことをされても


仕方ないとも思ってしまうのです。

 
そしてまた、罪悪感を持つと、自分を楽しむことも出来なくなります。

 
たとえば、楽しいことをしようと思っても、苦しんでいる人がいるのに

 
自分だけ楽しいことをしてはいけない・・と思ってしまうこともあるのです。

 
苦しいひと、悲しんでいるひとの横で、楽しそうにしてはいけないと思い

 
自分で楽しむことをやめてしまうのです。

 
とても、ナンセンスですね。

 

人のことは気にすることはありません。

 
あなたが楽しむことに罪悪感を感じる必要などないのです。

 
あなた達は連帯感というものに縛られるように教育されています。

 
みんなと同じようにすることが良いことだと教えられているのです。

 
そして、楽しいほうではなく


楽しくないほうに合わせるように教えらえています。

 
ですから、楽しくない人がいるのに、楽しんではいけない‥

 
という思考になってしまうのです。

 
私ばかりが幸せになってはいけない・・などと思ってしまうのです。

 
自粛という言葉がそうですね。

 

罪悪感など必要ありません。

 
あなたの人生はあなたが創造しているのと同じように

 
他の人もその人自身が自分の人生を創造しているのです。

 
ですから、あなたが他の人の人生を心配してあげる必要はないのです。

 
ましてや、自分が楽しむことに


他の人に罪悪感など感じる必要はないのです。

 

家族でも同じです。

 
家族の誰かがツラい思いをしているのに、

 
自分だけ楽しんではいけない・・などと思わないでください。

 
反対に、あなたが楽しんで、そのエネルギーを放出してあげてください。

 
そのエネルギーに触れ、共振することで


その人も楽しくなることが出来るのです。

 

罪悪感に気をつけてください。

 
罪悪感によって、あなたの思考はかなりコントロールされているのです。

 
罪悪感を感じたとき、その罪悪感がどこから出ているのかを

 
冷静に考えてみてくださいね。

 
罪悪感のほとんどは、常識、道徳観、倫理観、宗教観による

 
思考の操作によるものです。

あなたに愛をこめてお伝えいたします」


ありがとう、アシュタール! 

マイコメント

罪悪感と言うのはまるで麻薬のようであり、一度味わってしまうと二度とそこから

抜け出せなくなります。

それは自らの自由を束縛するだけでなく他人の自由を奪うとても良い口実となる

からですね。

罪悪感の中でもキリスト教で言われる原罪がもっともウエイトが大きいでしょう。

あなた達は生まれながらにして罪を背負って生れてきたのですからその罪を
背負って生きなければならないとされ、それを救えるのは神だけなのです。

と諭され、すべての非を自らの罪として贖うように教育され、神なしでは何もできない

弱い存在とされてしまっているのです。

どうして私たちは生まれながらにして罪を背負って生れてきているのでしょうか?

それは神に背いたからとされています。

旧約聖書の創世記に記された、アダムとイブが神の言いつけに背いて「禁断の木の実」を食べたことを意味します。人間はアダムとイブの子孫であるため、その罪は引き継がれ、人間は生まれながらにその罪を背負うという考え方となり、ゆえにその罪は「原罪」であるとされるのです。

すごい論理ですね。

神に背いたのはアダムとイブでその子孫である私たちも同じように罪を償いなさいという

ことですが、これは親の犯した罪を子供たちは累々にわたって永遠に償わせるということを

言っているのですが、どう考えても論理的に破綻してます。

現代の法的解釈においてもそういうことは否定されているのですから・・・。

宗教というのは基本的に人を罪人扱いにして束縛することが目的として根底にある

ように思います。

どんな宗教の教義でもそうですが、善い行いというのが初めにあり、それと対立する

行いが悪いこととされ、それを戒めることが目的となっています。

それがひいては良い世の中を作り、人を改心させる役割を持つというものです。

私たちの生活の周りにある常識というのはそれが色濃く反映されています。

そうした罪悪感は自らの行動や発言を束縛することとなり自由を失います。

だから、罪悪感についてはそれを感じたときによくよく考えないといけないものです。

それが正しいかどうかで判断するのではなく、個人の自由を奪っていないかという

観点で考えないと堂々巡りの思考に陥ってしまうからです。

自由を奪うものであれば考え直さないといけません。

私たちは基本的に何をするにも自由な存在です。

その自由を奪うのであればそうでない考え方をすべきなのです。





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