破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:思考の違う人が互いに争うのは?」

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会う合わない アセンション

破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:思考の違う人が互いに争うのは?」

今日の破・常識!

根底に流れている思考が似ているということです。

byアシュタール

「思考の違う人が互いに争うのは?」by アシュタール

本日はYoutube動画が掲載されておりませんので、ご了承願います。

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。

「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。

それは同じ思考を持っているということですね。

お互い表面上の違いはありますが

根底に流れているのはどちらが正しい、間違っている

という判断の思考です。

分かりますか?

争うというところの思考が同じだということです。

自分の方が正しい考え方をしている

と思っているところが

似ている、引き合っているということです。

その思考がない人は、争うことはありません。

あなたはそう考えるのですね

私は違う考えをしているので

そこは合わないですね、離れておきましょう

・・と思えれば、争う、言い合いになる

ケンカになるということはありません。

私は正しい考え方をしている

この考え方と違う考え方は間違っている

・・という思考が似ているのです。

だから、争いが起きるということです。

違う考えではあっても、根底に流れる・・

私の考えの方が正しい・・という思考が

とても似ているということです。

自分の方が正しいと認めてくれる相手を探しているのです。

だから、主張し合える相手と出会うのです。

認めてくれるというのはOKだけのことではありません。

あなたは素晴らしいと賞賛されることだけではなく

反発もまた認めることになるのです。

難しいですか?

認めるというよりも興味をもつと表現した方が

分かりやすいかもしれませんね。

興味を持つということは

相手をしてもらえるということです。

自分の意見に関して関心を持ち

自分を見てくれるということです。

それを望んでいるのです。

だから、OK、あなたの意見を素晴らしい

と言ってもらえても

NO、あなたの考え方はおかしいと言われても

根底のところの望みは叶えられるのです。

どちらも自分に関心を持ってくれる

興味を持ってくれるというところで

満足することができるのです。

お互い干渉し合うことで

満足することができるということです。

OKでもなくNOでもなく、あなたはそう思うのですね

・・と言われてしまうと何だか肩透かしをされたようで

つまらなく感じてしまいます。

それは自分を評価してもらえない

と思ってしまうからです。

そういう意味では承認欲求とも言えます。

相手をして欲しいのです。

意見の相違などで争うことで

承認欲求が満たされることがあります。

もちろん論破したと思えたときの気持ちよさもあります。

論破することで自分の方が正しいと思え

そのことでエネルギーを補給することができるからです。

そういう意味ではエネルギーバンパイアでもあります。

干渉し合わないということを

無関心だと思わないください。

無関心なのではなく、その人にとても魅力を感じ

興味を持っていてもその人の考え、思考を尊重する

ということです。

お互いとても魅かれ合っているけど

お互いの意見を尊重し、合うところは一緒にいて

合わないところは離れておくという考えなのです。

離れておくことよりも話し合って

お互いが納得できるところで

すり合わせるということもできます。

そこにはお互いの意見の尊重があるのです。

お互いの意見への尊重がなければケンカになります。

お互い自分の正当性を主張し合うだけになるからです。

表面的には同じことをしているように

見えるかもしれませんが

根本的なところが大きく違います。

ここを理解することができれば

どんなに意見が違っても不毛なケンカ、言い争い

意見の押し付け合いにはなりません。

今回のご質問の

似ているところがあるということでしょうか?

に関しては、はい、とお答えしたいと思います。

根底に流れている思考が似ているということです。

あなたに愛をこめてお伝えいたします」

 

ありがとう、アシュタール! 

マイコメント

「似ているから」と書かれていたので、意見の食い違いがあってもどこかで似ている意見を
持っているからととらえていましたが、違いました。

そうではなく、互いに自分の意見を認めてもらいたいという承認欲求と言う部分で似ていると
いうことです。

そのために自分の意見を主張して何とかして相手に認めさせようとし、それが出来ないとわか
った途端、怒りが収まらず争いになるということです。

まあ、誰しもそうだろうと思います。
誰だって自分が可愛いし、自分を認めてもらえればうれしいですからね。

これはある意味、子供のころからの学校教育における競争と似たところがあります。
学校と言うのは自分が周りから認めてもらえるのはテストによる成績が主なものです。
そのため誰よりもいい点を取ろうと争うことになり、点数がよければそれだけで「あいつは
すごい」と思わせることができます。

そうした競争の中で培われたものが自分が他人より秀でていなければならないという思考です。
それが学校における承認欲求です。

それを義務教育九年、高校三年、大学四年、計16年という長きにわたって行われるのですから
影響力が大きく、他人と自分は違うという思考が根付き、自分が優位でなければならないという
ところにつながり、争いの種が出来ているのです。

それを認識したうえで、他人は他人、自分は自分で不毛なところで相争わない思考を身に
つけていかなければならないだろうと思います。

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