ミナミのライト らいとライフ「アシュタール:じょうもんの人たちは・・・」
ミナミAアシュタールRadio639
「超感覚を思い出しその感覚を使う・・・」
vol.1299 「超感覚を思い出しその感覚を使う・・・」
vol.1300 「あなたの身体の周りのエネルギーを大きく広げてください」
じょうもんの人たちって怒りや辛いなどの感情はなかったのかな?
じょうもんの人たちはいつも
幸せだったのかなぁ~?
怒りや辛いなどの感情とかって
なかったのかなぁ~?
じょうもんの人たちって
どうやってそんなに長い期間
平和な世界を築いていけたの?
では、アシュタール、
よろしくお願いしま~す^^
「じょうもんの人たちは・・・」by アシュタール
「こんにちは
こうしてお話できることに感謝します。
幸せの概念の違いですね。
じょうもんの人たちにも
もちろん感情はありました。
身体的にも痛い事もありました。
ただ彼らはそれに
抵抗しなかったのです。
良い悪いという判断も
なかったのです。
そこがいまのあなた達の社会とは
違うところなのです。
幸せというのは状態です。
条件ではありません。
あなた達の幸せは概ね
物質的に恵まれている、
人間関係(パートナー、友達、
親子など)が良好だという
ことですね。
それは条件です。
あなた達は、お金があれば幸せ、
大きな家に住んでいれば幸せ
大好きな人と一緒にいられれば幸せ、
旅行に自由に行ければ幸せ・・
というように何かが出来れば
幸せだと表現します。
でも、じょうもんの人たちは
条件で考えることが無かったのです。
たとえば、人を好きになったとして、
あなた達はその人が自分も
好きになってくれる(相思相愛)な
状態が幸せであり、
その人と相思相愛になれなければ
不幸せ、かわいそうな私という考えが
ありますが、じょうもんの人たちは
相思相愛にこだわらないのです。
自分がその人を好きだと思う
気持ちだけで十分満たされたのです。
じょうもんの人たちには
所有という概念がなかったので
もちろん物質的にも人より多く
持っていることに幸せを感じる
ということもありませんでした。
怒りという感情もありましたが、
何かを取られた、裏切られた、
傷つけられた、ということも
ありませんでしたのでほとんど
感じることがなかった
ということです。
何かイヤだと思うことを
されたとしても(わざとではなく
何か考えの行き違いなど)
それを正直に伝え、相手と話しあい、
お互いの気持ちを理解しあう
という事をしっかりと
していましたので後々まで
引きずることもありませんでした。
生活に余裕があったので
気持ち的にも余裕があって、
人に対してあまりトゲトゲする
こともなく、ちょっとしたことで
イライラするということも
なかったのです。
そして、そもそも二元的な概念、
善悪、良し悪し、対極の世界
という概念が無かったのです。
すべてがOKの考えでしたので
(もちろんイヤなことをすべて
受け入れたということではありません、
イヤなことはイヤだとはっきりと伝えて
いました)善悪などで判断する
ことはなかったのです。
善悪の判断は宗教で後に
あなた達の支配者に刷り込まれた
ものであるということは
お伝えしたいと思います。
神の言葉(支配している宇宙人の
言葉)をもとにしてつくられた
判断の基準です。
常識、倫理観、道徳観なども
同じです。
いまのあなた達はそれを判断基準として、
判断することを刷り込まれて
しまっているのです。
ですから、幸せだぁ~と思うことも
なければ、不幸せだぁ~と
思うこともなかったのです。
幸せが良い事で、不幸せが悪い事
だという判断が無かったのです。
何が幸せで、何が不幸せだという
判断が無かったのです。
常に自分でいることだけでした。
何かが起きたらそれもOKなのです。
身体を脱ぐ事にも抵抗はしません。
身体を脱ぐことは特別な事、怖い事、
悪い事、忌む事では無かったのです。
時期が来れば(それは人それぞれです)
身体を脱ぐのは当たりまえ
だと思っていますので何も考えず
受け入れます。
(じょうもんの中期くらいまでは、
もうテラでの経験はいいかな
と思えば自分で身体の機能を
止めて身体を脱ぐということも
出来たのです。
自分で決めて身体を脱いでいたのです)
病気になる事が不幸せだという
考えはありませんでした。
ケガをすることも
不幸だとは思わないのです。
好きな人が自分の事を好きだと
思ってくれるから幸せなどと
条件的な何かで幸せだと
思うこともなかったのです。
常にニュートラルな状態だと
表現すればわかりやすいでしょうか?
だから、常に満たされていたのです。
ご理解いただけましたでしょうか?
あなたに愛をこめてお伝えいたします。」
ありがとう、アシュタール! 感謝します。
マイコメント
じょうもんの人たちの考え方は今の私たちと比べたら想像もつかないほど
かけ離れたものだということがアシュタールの説明から伝わってきます。
今の私たちには喜怒哀楽の感情がたっぷりあって、そこに宗教的概念から
形成された善悪や憎しみの感情がどっぷり詰まっています。
今の私たちには喜怒哀楽を豊かに表現することが素晴らしいことで、それが
ホモ・サピエンスたる存在の証だろうと思います。
問題はそこに善悪の感情が割り込むことですね。
その善悪の感情が混じり込むことで他人との差や競争などが生まれてきます。
そして、他人よりお金があって何不自由ない生活をしていることが善であり
その反対は悪だと思わされています。
もし、そこに善悪の感情がなければ、あるいは極端に少なければ怒りと悲しみ
の感情が今ほど大きくなく、すべて受け流すことが出来ていたのではないかと
思います。
宗教は思想の断裂を産み、そこに自宗教と他宗教との優劣を競う考えが生まれ
宗教の戒律の違いが人と人との争いを産みます。
じょうもんの頃には当然宗教などありませんでしたから、善悪の感情による
争いもなかったことでしょう。
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