世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:学校教育の弊害?」

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レンズの屈折 アセンション

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:学校教育の弊害?」

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えしますね^^

 

「学校教育の弊害?」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。
 
あなた達は学校の教育で答えは一つだと
 
教えられています。
 
その答えも先生という権威のある人がこれが
 
正解ですと言ったものだけだと思い込んで
 
しまっているのです。
 
 
答えは覚えるもの。
 
答えは誰かに与えてもらうもの。
 
そして、誰かに提示された選択肢の中に
 
だけあるもの。
 
と刷り込まれてしまっているのです。
 
 
だから何か問題が起きると答えを教えて
 
くれそうな人を探してしまいます。
 
答えはどこにありますか?
 
答えを知っている人はどこにいますか?
 
と迷子になってしまうのです。
 
 
そして、自分で考えたとしてもそれが正しい
 
答えであるかどうかを誰かに確認してほしく
 
なります。
 
あなたが導き出した答えは正解ですよ・・と
 
誰かに太鼓判をもらわないと安心できないのです。
 
 
答えは一つではありません。
 
見る角度によって答えは変わってきます。
 
見る角度・・それはあなたの思考によって変わって
 
来ます。
 
あなたの知識や情報によっても変わってきます。
 
 
そして、あなたの知識や情報量が変わっても
 
あなたの中の答え(正解)は変わってくるのです。
 
変わってもいいのです。
 
一度出したからといって、その答えに固執する
 
必要はありません。
 
 
答え・・・それは不変の真実ではないのです。
 
その時のあなたの状況や環境、考え方によって
 
変わってきます。
 
いまの答えで大丈夫なのです。
 
 
そして、答えはたくさんあります。
 
人の数だけ答えはあるのです。
 
人の数だけ正解はあるのです。
 
 
その人がそれが正解だと思えばそれがその人に
 
とっての正解なのです。
 
だから、お互い自分の正解を主張しあう必要は
 
ないのです。
 
あなたにとってはそれが答え(正解)なのですね、
 
私にとってはこれが答え(正解)だと思います。
 
とお互いの答えを尊重し合えば平和なのです。
 
お互いの答えをこちらが正しいと主張しあうから
 
ケンカという不毛な争いになってしまうのです。
 
 
答えが違うからと言って拒否されたと思うから
 
腹も立ってくるのです。
 
人格を拒否されたような気持になるのは、
 
学校教育の弊害です。
 
学校教育で答え(正解)は一つだけだと教えられ、
 
その答えを出せなかった(覚えることが出来なかった)
 
ことで成績(頭)が悪いといわれたり、みんなの前で
 
恥ずかしい思いをしたので、人と答えが違うことに
 
大きな危機感を感じてしまうのです。
 
そして、答えが違うと言われることでとても傷つく
 
のです。
 
拒否されたり、人格を否定されたような気になって
 
しまうのです。
 
 
答えが違うのは、否定でも、拒否でも、人格の問題
 
でもありません。
 
ただ、考え方が違うというだけのことです。
 
 
あなたが何を信じていてもいいのです。
 
その反対に他の人が何を信じていてもいいのです。
 
あなたには関係のないことなのです。
 
答え、正解、信じているものが違っていても
 
それは人格的な拒否でも、
 
バカにされていることでも
 
拒否されていることでもないのです。
 
ただ、そこは違いますね・・
 
というだけですむ話なのです。
 
 
あなたの答えはあなたが持っています。
 
答えを持っている誰かを探さないでください。
 
誰かに教えてもらうのは情報だけです。
 
誰かから情報を得てそれを自分で消化して
 
その中からあなたの答えを見つけてください。
 
そして、その答えに誰かの太鼓判はいりません。
 
あなたが太鼓判を押せばいいのです。
 
 
答えは一つ、
 
それも権威ある人がこれが正しい答えですと
 
提示したものだけ・・
 
という思い込みを外してください。
 
 
自分で見つけた答えではない答え(権威がある
 
人がこれが答えですと言ってるようなものなど)
 
を、主張し合ってけんかのようになるのは
 
とてもナンセンスなことです。
 
 
いろいろな人から(社会的な権威がない人からも)
 
たくさんの情報を得てそれをあなたの中で消化し
 
あなたの答えを見つけてください。
 
 
それはあなたの答えです。
 
それでいいのです。
 
他の人はその人の答えがあるのです。
 
それをお互い尊重し合ってください。
 
 
学校教育は一つの答えを教え込むものです。
 
それは子どもたちを思考停止にするために
 
行われているものなのです。
 
誰かに教えられた答えだけが正解で他の答えは
 
間違いだと刷り込み、権威ある人の答えを正解とし
 
それと違う意見を言うとみんなに笑われる、
 
先生に叱られるという経験をさせることで考える
 
ことをやめ、ただ教えられた答えをひたすら覚えると
 
いう思考停止にするのです。
 
庶民が思考停止になれば支配者たちはとても都合が
 
良いのです。
 
自分たちの都合のいい答えを正解だと思わせ
 
それを実行するようにしておけば簡単にあなた達
 
庶民をコントロールすることが出来るからです。
 
 
あなたがこれが自分の答え(正解)だと思うこと
 
それがあなたにとっての答え(正解)なのです。
 
あなた自身を信じてください。
 
 
あなたに愛をこめてお伝えいたします。」

ありがとう、アシュタール! 感謝します。

マイコメント

まさしくその通りです。

私の学校時代には示される答えは確かにひとつでしたが、それ以外にこのような答えも

ありますよと先生が示してくれたものもありましたので、今のように厳格にこれしかない

という教え方ではなかったような気がします。

当時はまだ本人の考え方を尊重するところが残っていましたので、今と比べれば少しは

良かったのかもしれません。

また、田舎の学校なのでそれほど厳格ではなかったのでしょう。

高校時代に物理の授業でレンズの屈折を考える問題があり、私は教科書には書いてない

ような独自の回答を黒板に書きました。

そうしたら、先生が偉く感心して褒めてくれましたがあながち間違いではなかったように

思います。

つまり、屈折はガラスと空気との境目で起こるので2回屈折を起こし焦点を結ぶと

図解したものです。

これでも正解にしてくれました。

物理と言うのは見る視点の斬新さが新しい理論を創っていくものなので、私のこうした

見方を認めてくれたものだったと思います。

今だったら即座に否定され上の図が正解とされたでしょう。

当時物理の公式は覚えずに基本公式からすべての公式が導き出せると自ら理解できて

いたので、試験の時にはそのようにして導き出し問題を解いていました。

自分で考えるということがこうした物理だけでなくすべての教科に当てはまることなので

先生が否定したとしても自分なりの回答方法として保持しておくべきと思います。

それがいつか役に立つときが来ます。




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