破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:記号はあなたではありません」

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破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:記号はあなたではありません」

今日の破・常識!

妻、夫、部長、課長、アルバイト、派遣社員、父、母、子ども

・・などという表現は記号なのです。

記号はあなたではありません。

あなたは”個人”なのです。byアシュタール

 

アシュタールからのメッセージ

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。

「記号はあなたではありません」by アシュタール


「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

あなた達の社会は、”個”という見方を無くしてしまっています。

個が大切にされない、個を大切にしない社会は

とても閉塞的でツライ社会になります。

集団、組織のために個人がいるという考え方になると

個人は息苦しくなってしまうのです。

個は(言い方は悪いですが)組織のための

使い捨てとしてみなされてしまうのです。

それは、いまあなた達が実感されていることだと思います。


集団で生活している生き物たちはたくさんいます。

蜂やアリなどの生活もそうですね。

あなた達は彼らを自分達と同じようにみます。

みんなのために、集団のために

個々の蜂やアリが働いている・・と思っているようですが

そうではありません。

彼らは個をとても大切にしています。

大切にしている・・と表現すると、誰かリーダーがいて

ひとり一人を見ているように思われるかもしれませんね。

そうではなく、それぞれの個が自分を大切にしているのです。

だから、他の個も大切にするのです。

みんながそれぞれを大切にするからこそ

とても調和のとれた集団になるのです。

だから、みんなが楽しく生活することが出来るのです。

見た感じでは女王のためにみんなが働いている

女王が作っている巣(集団)のために働いている

と思っているかもしれませんが、そうではないのです。

自己犠牲的に集団のために働いているのではなく

自分が暮らしやすくなるために働いているのです。

分かりますか?


自分の環境を豊かに楽しくするためには、

ひとりでいるより多くの人と一緒にいたほうが

いろいろ手分けすることが出来るので、快適な生活になる。

だから、集団になっているのです。

ピラミッド型のように女王一人のために

集団になっている訳ではありません。

みんながそれぞれに出来ることを分担することで

自分が楽に豊かに快適に過ごすことが出来るから

手を取り合って集団になっているのです。

それが個々が手をつなぐ横並びの集団なのです。

同じ集団に見えても、根本的なところが違ってくると

その集団の意味が違ってきます。

あなた達の集団(社会)は、

集団のために生きることを強要されています。

自己を犠牲にしても、会社、組織、社会のために生きなさい

と教育されてしまっているので

個人の快適さはないがしろにされているのです。

だから、個人として幸せになれないのです。

豊かで自由で快適な生活が出来ないのです。

同じようなことしていても、人のためにすると考えるのと

自分が快適になるためにそれをすると思うのとでは

まるで違ってきます。

人のためにするんだ、組織のためにするんだと思って

自分の快適さをないがしろにしてしまうと

大きなストレスになってしまいます。

みんながそのようなストレスを抱えてしまうと

社会、組織自体もストレスのかたまりになってしまうのです。


家族も同じです。

家族を存続させるために生きるのではなく

個々が楽しく生きるからこそ

家族は存続でき楽しく快適になるのです。


個人を忘れないでください。

個人がいるからこそ、みんなで集まって

たくさんのことが出来るのです。

個人だけでは出来ないこともできるようになるのです。

そうなると、また楽しいことが増えて行くのです。

個人ひとりではなかなか出来ないことも

たくさん人がいれば出来ることが増えます。

それは集団という形をとることになるのですが、

集団があるから出来るのではなく、

個人がたくさんいるから出来るのです。

会社があるから仕事ができるのではなく

個人一人一人が出来る仕事をしているから

会社としての仕事が出来るのです。


すべての人と”個人”として向き合ってください。

”個人”として認識することが出来れば、

そこに愛の感情(尊敬と尊重と感謝)が

あふれて来るようになります。

個人を個人としてみず、何かの記号のように見てしまうから

愛を忘れてしまうのです。

妻、夫、部長、課長、アルバイト、派遣社員、父、母、子ども

・・などという表現は記号なのです。

記号はあなたではありません。

あなたは”個人”なのです。

あなた自身も、まわりの人も”個人”だということを忘れないでください。

記号のように考えないでくださいね。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」

ありがとう、アシュタール! 

マイコメント

仕事を辞めて見るとわかるのですが、社会的肩書には意味がないことがよくわかります。

こちらに戻ってきてから年に数回開かれる同窓会に参加してみるとわかるのですが

どこどこの部長だったとか社長だったとかと言ってみてもそれは過去の栄光であり

今の本人には意味がないことであり、周りの人にとって見ても同じことです。

本当にそれで同窓会の中でも序列付けを行おうと考えることはナンセンスな考えで

あり、みんなもそれをわかっているのでそういう見方はしません。

完全に個の集まりになります。全員対等な関係になります。

しかし、仕事で会社にいるときには違います。

その会社の求める立場にふさわしい行動と言動、そして働きが要求され、周囲も

そのふさわしい肩書の意義を求めます。

それにふさわしくなければ降格と言うこともあり得るのが会社です。

そして、会社の中で部長から平社員に落とされたときに初めて肩書の持つ意味が

わかるときがあります。わからない人はわかりません。いつまでもその栄光に

しがみつきます。私はこうだったと言って・・・。


夫や妻も同じですが、考えてみると私たちは何となくすした肩書がないと人を

評価できないように思わされているのかもしれません。

夫や妻でも子供がいるかいないかで評価も変わります。

社会的に見て子供がいる方の評価が高いのです。

でも、子供が成人し親から離れてしまい、本人が老人になると全くその評価は意味を

持ちません。本来なら死ぬまで同じ評価であっていいはずなのですが・・・。

なぜかというと人は人を評価することで相対関係を築こうとするからです。

いわゆる社会的上下関係と言うものです。

これが築かれないと不安になるからですね。

逆に言えば対等と言う関係に慣れてないということです。

最初に書いたように仕事を離れてしまうとそれはガラッと変わります。

そこでやっと個と個との対等関係に気付くからです。

アシュタールが語っているように肩書で見てしまうとその個人を見ているのはその人

個人の持つパーソナリティではなく肩書なのです。

どこどこのデパートの専務さんと社員では大きく違うでしょう。

今の社会はピラミッド構造になっていて肩書が偉くなるほど社会的権威が増し人は

その人を偉い人と評価することで指示命令系統が上から下に働くようにできています。

これが逆だったら会社は潰れます(笑)。

本来なら個と個との関係を対等なものにするのがいちばんです。

でも、今の社会では難しいかもしれません。

少しでも軽視する言動行動を取るならば会社によっては即座に首か降格ですからね。

でも、会社を離れたらもう関係がないのでそうした考えを持たないようにする方向で

やっていくのがいいでしょう。

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