破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:教えられている善悪の判断」

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善悪の基準 アセンション

破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:教えられている善悪の判断」

今日の破・常識!

教えられている善悪の判断を手放してください。

 
あなた自身のハートで判断してください。

 
好きか、キライか、やりたいか、やりたくないか


・・それだけで十分なのです。byアシュタール

アシュタールからのメッセージ

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。  


「教えられている善悪の判断」by アシュタール

「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

 
善悪の判断を手放してください。

 
あなた達が教えられている善と悪という基準は


宇宙の摂理に沿ったもの、

 
波動という観点からのものではありません。

 
宇宙の摂理、波動という観点と申しましたが


宇宙、波動エネルギーには善や悪という概念は存在しません。

 
良いも悪いもありません。

 
他の存在から見て、他の存在を判断するということもありません。

 
すべてがOKなのです。

 
あなた達が教えられている善悪という判断は


宗教的な観点からよるものなのです。

 
宗教的な観点=権力者にとって都合の良い観点から


作られた基準なのです。

 
それによって、善悪という概念が作られたのです。

 
宗教という概念そのものが、


権力者によって作られたものだということです。

 
宗教による”神”という概念も同じです。

 
(”神”という概念も、権力者(支配者)によって作られたものです。)

 
”神”の教えに従う行為が善であり


それに背く行為が悪ということです。


そして、宗教や国、民族によって宗教的な概念も変わって来ますので

 
善、悪の概念も変わってきます。

 
ある宗教、ある民族から見たら善の行為であっても


他の宗教、民族からみたら悪の行為であるということもあるのです。

 
そうですね。

 
ですから、善悪は普遍的な概念ではないということです。

 

善悪という判断は、時代、場所、宗教、


などによってコロコロと変わるのです。

 
コロコロと変わることによって


何が善で、何が悪かわからなくなります。


人を殺めてはいけない、それは悪の行為である・・と教えながら、

 
”神”の名のもとに戦争をし、たくさんの人を殺める行為は


善の行為として英雄とされるのです。

 
大きな矛盾ですね。

 
このくらい、善悪という概念は頼りのないものなのです。

 
都合によってコロコロと変わるものなのです。

 

あなた達が教えられている常識、倫理観、道徳観などの価値観


思考も、支配者たちの都合の良いように作られた


善悪の判断基準だということです。

 
場所、時代、国、民族によって、まったく違ってきます。

 
そのような不安定な常識を教え込まれ


常識にそっていることが善であり、

 
常識から外れることが悪なる行為だと刷り込まれ


善なる行為をするために自分を押し殺し


我慢をするようにされているのです。

 
あなた自身の中に善悪の判断基準を作り


常に自分をジャッジするように教えられてしまっているので


あなたは自分と常に戦うことになるのです。

 
素直な気持ちと、常識などに沿った


善悪の判断と戦うことになるのです。

 
自分と戦う必要などないのです。

 
自分と戦っても何も良いことはありません。

 
セルフイメージは低くなり、常にツライ思いをし


波動は重くなってしまいます。

 
それが、支配者たちの目的なのです。

 
教えられている善悪の判断を手放してください。

 
あなた自身のハートで判断してください。

 
好きか、キライか、やりたいか、やりたくないか


・・それだけで十分なのです。

 
そして、自分を信じ、自分の好きなこと


気持ちの良いこと、すっきりすることだけを選択していけば


あなたにとって間違った選択をすることはありません。

 
そして、愛から離れる選択をすることもありませんので


安心してください。

 
セルフイメージがもとに戻り、波動が軽くなって行けば


ご機嫌さんになり、相手に対する尊敬と感謝の気持ちが


大きくなりますので、相手を傷つけたりするような選択はしません。

 
人を傷つけることは悪い行いだからやめましょう・・

 
などとわざわざ教えられなくても


愛の気持ちがあれば人を傷つけたりしません。

 
人を傷つけることさえ考えもつかなくなります。

 
教えられて来た善悪の判断は手放し


あなた自身の感覚(ハート)で判断するようにしてください。

あなたに愛をこめてお伝えいたします」

 

 


ありがとう、アシュタール! 

マイコメント

人を殺すことは重大な罪に値すると教えられていながら、戦争に赴けば人を殺せと

命じられ、それが最高の行為だと称えられます。

戦争で何機のゼロ戦を撃墜したかでその人の評価が決まり、多いほど称賛されるのが

戦争です。

一般人は人を殺めると刑罰を受けるのに戦争ではそうなりません。

大変大きな矛盾ですね。

それが善悪の概念です。

応用される局面において評価が異なるということです。

本当に善悪が宇宙において普遍的な基準ならば戦争で人を殺した人も一般人と

同じように刑罰を受けなければなりません。

また、キリスト教における罪についても神に告白すれば赦されるというのが

あり、隠れ部屋で行われそれを牧師が聞いた後「あなたの罪は神の名のもとに

赦されました」と告げられ終わるのですが、そんなことされたら街中を罪人が

堂々と歩いているのを認めることに等しいものです。

キリスト信者ならそれが出来ますが、それが出来ない一般人はどうしろと言う

のでしょうか?

そうならば全世界の人がキリスト信者にならないといけなくなるでしょう。

そんなこと絶対無理なことだとわかるでしょう。

信教の自由があるわけですからね。


そうはいってもそうした概念は私たちの心や身体に深く沁みついていてどんな

時にも顔を出し人を善悪で判断しようとします。

アシュタールがその善悪を好きか嫌いかで判断するようにと言うのは罰するという

概念がその場合なくなるからです。

ただ嫌なら認めなければいいだけで、そこから離れることで終わります。

人を殺すことが嫌ならそうしなければいいだけで、そういう人が仮にいたとしても

そこから嫌だから離れるだけで済みます。

会わなければいいだけのことです。

自分とは関係のない世界だと思うことになります。

そして、当の自分は楽しいことに没頭するだけになります。

そうすれば、そこは楽しい世界になるということです。

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